ゴドーを待ちぼうけて(3)
「で、でも、あの人、勝手に商売するなって」
「金をもらわなきゃ、商売じゃないだろ」
黒宮の提案に、少女は複雑な表情だ。ヤクザに脅された後なのだから、警戒するのも無理はない。
一方、黒宮たちと言えば、お気楽なもので。
「……うーん。黒宮さんが言うと、なんだか、いやらしいことするのが前提みたいだね」
「放っとけ。それに、おまえ、しばらく寝てないだろ。見れば分かる。
ま、ちょっと休んでいけよ。
一応聞いとくが、おまえ、名前は?」
「茜、です。倉木茜」
「茜さんね。もし意に沿わないことをされたら、私に言うといいわ。
全く、この背教者ときたら、本当に手の早い男なのよ」
何のかんの、気の抜けたような、漫才めいたやり取りをして。
初対面の彼女にも、不思議なほど親切にしてくれる。
ジェットコースターみたいな夜だと、茜は思う。
チンピラに囲まれ、恐ろしい女に脅されたと思ったら、今度は喜劇じみた会話に混ざっている。
そうして4人は店を出て。
近くにある、黒宮のマンションまで足を進める途中で、「彼女」に出くわした。
「ひっ」
茜は足を止め、凍りついたように動けない。
冬だと言うのに胸元の大きく開いた服の、派手な美人だ。
店の明かりに照らされて、耳のピアスがキラキラと輝いている。
少女を捕まえて、脅しあげた、あの女。
得体の知れない雰囲気を醸し出し、チンピラを顎で使っていた、街の裏側の顔役だ。
「あら、あなた。さっき、おイタはダメよって言ったでしょ?」
にやりと、サディスティックに笑って女は言う。
どうしようどうしょう。こんなタイミングで見つかるなんて。
パニックになった茜の頭を、そんな思考が埋め尽くす。
「あれ? あのときの、酔っぱらい?」
すっとぼけたような声を出すのは、黒宮だ。
以前、夜の街で出くわした、酔っぱらいの美女。そのまま路地裏に連れ込んで、激しくイタしてしまった女である。
気まずい。
「……あー、その、な。あのときのことは、うん、お互い水に流すということで……」
色々と察した恋とイリスが、はぁ、と溜め息をつく。
そして、女ーー「魔女」の麗花は、黒宮を前にして、やはり凍りついたように動かなくなる。
「え……? ああっ! あの時の、お兄さん!
ね、ねえ、ひょっとして、その……この子の、知り合いだったり、する?」
素っ頓狂なくらい、焦りに満ちた声だった。
目をキョロキョロさせ、得体の知れない雰囲気は霧散して、ひとりの怯える女がそこにいた。
家出少女は、あれほど恐ろしかった女が、黒宮という男の機嫌を必死で伺うのを見て、心底驚いてしまう。
「いや、なんつーかな、さっき知り合ったばかりだ。寝てなさそうだし、泊まる場所も無いっていうから、部屋を貸してやろうと思ってる」
「そ、そうなの……ええ、ええ、人助けだもの、ご苦労さま。
それよりね、お兄さん、アタシ、ずっと謝りたいことがあったの」
すす、と黒宮の近くにすり寄ると、胸元にすがりつくようにして、真っ直ぐ見つめてくる麗花。
その瞳の必死さ、真剣さに、黒宮は首を傾げてしまう。
黒宮からすれば、謝るのはこちらの方で、とんと心当たりがない。
まさか彼女が、祭司の力を掠め取って、呪いの魔術を行使したことなど、知る由もないのだ。
「あの時は、本当にごめんなさい。もう二度と、あんなことはしないって、誓うわ。
ね、アタシのカラダで良ければ、好きにして。何でもするし、してあげる……だから、あの方に、あの方に口添えをしてくれないかしら。
あの……女神様、に」
その言葉は、ひどく小さく、黒宮にしか聞き取れないくらいの囁きで。
それで黒宮は、大体のところが理解できた。
(この女、あれを知ってるのか。それも、ずいぶん怖がってるな)
「分かった分かった。俺のいうことを聞くか、保証は出来ないけどな。ちゃんと伝えとくとも」
「あぁ……ありがとう。これでちょっとは、気が楽になるわ。
ちょっとまってね……」
美女はその場でさらさらとメモを書き、黒宮に手渡した。
「アタシ、麗花っていうの。それが電話番号。
シタくなったら、いつでも呼んで。本番ありのデリみたいに使って構わないわ。
じゃあ、ね」
去り際にキスをして、現れたときと同じくらい唐突に、麗花はその場を去っていった。
「わあ。黒宮さんって、ホント、空気を吸うみたいに女の人を引っ掛けるんだね」
「……やっぱり、この好色魔は、放ってはおけないわね」
残されたのは、ふたりの少女にジト目で睨まれる黒宮と、何がなんだか分からない茜である。
結局、マンションに着くまで、黒宮は一方的に責められることになった。
「……ん」
目を覚ます。
ふかふかのベッド。広くて、がらんとした部屋。見覚えのない場所。
まるで泥のような眠りだった。
時計が指すのは深夜の2時。
「そっか、泊めてもらったんだっけ」
ベッドから抜け出ると、夜の空気をいっぱいに吸い込んだ。
ひどく喉が渇いている。
何か飲み物を探そうと、部屋を出て、リビングを探す。
「あれ、もう起きたのか?」
そこには、ペットボトルからジュースを飲んでいる黒宮がいた。
小さな間接照明だけが点けられたリビング。
リビングなのに大きなベッドが置いてあって、そこには美少女がふたり、裸で眠っているのが見えてしまう。
「はい……えっと、黒宮さんは、その」
「まあ、セックスの後だな」
悪びれもせず、あっさりと答えると。
黒宮はコップを取り出し、茜の分も注いでやる。
「……あんな綺麗な女の人に、二股をかけるだけでびっくりなのに。3Pまでしてるなんて」
「言いたいことはよく分かるぞ。まあでも、あいつらはあいつらで、楽しんでるからな」
「……楽しいんですか? セックス、って」
「そりゃもちろん」
茜はジュースを飲みながら、静かに考え込んでいた。
「あの。二人を起こしちゃうから、場所を変えてお話出来ませんか」
「ああ、いいぞ。どうせ俺も、変に目が覚めちゃってるからな」
目を覚ました部屋に戻ると、ふたりでベッドに腰掛ける。
普段の黒宮なら、そのまま押し倒して美味しく頂き、話は後回しにするところだが。
恋とイリス、若い二人と激しく愛し合った後だし、俯いて言葉を探す少女の表情は、「そういう」雰囲気では無かった。
「うち、母が離婚してから、壊れちゃって。
いつも男を連れ込んでるんですけど、そいつ、わたしにも色目を向けて来るんです。
親子丼、って言うんですか? 男の人って、そういうの、興奮するんですね。
ある日、母が出かけた後に、部屋に入ってきて。無理矢理、抱かれました」
思ったとおり。いや、思った以上に重たい話だった。
「わたし、不感症なんです。
強引に襲ってきて、散々出したくせに、マグロは面白くない、なんて言われました。
ちょうど、彼氏に捨てられた後だったんですけどね。同じこと、言ってましたよ。反応がなくてつまらない、って。
……だから、家出して、ウリを始めたんです。みんな、楽しそうにセックスして、お金をくれるから。あいつらと違って」
「でも、なんだか、バカバカしくなっちゃった。
みんな、わたしの上に乗っかって、ヘコヘコ腰を動かして、うって呻いて射精して。そうして、通り過ぎていくんです。その繰り返し。
なんだか、バカみたい。こんなことして、何の意味があるんだろう」
そう語る少女の目は、どこか虚ろで、目の前の黒宮ではなく、そこにいない誰かを見ているようだった。
まずい表情をしている。
身投げする前なら、人間、こんな顔をしているのではないか。
そう思わせるような、危うい表情だ。感情が抜け落ちて、瞳が焦点を結んでいない。
もう、視線が彼岸に向いてしまっているのだ。
「そりゃ、それがなくちゃ、俺もおまえもここにいないんだから。少しは意味もあるってもんだよ」
「そうですか? 毎日、男に抱かれてホテルを変えて。家に帰ったら帰ったで、母の男に犯されて。本当に、意味なんかありますか?」
黒宮は押し黙ってしまう。
今まで関係した女性たちは、多かれ少なかれ、恵まれた立場にいた。
両親を亡くした京子にしろ、虐待家庭にいたわけではない。資産も、社会的名声も持っていた。
枕営業に疲れて秘書になった水樹は、出来る大人の女として働いていた。
夏桜シスターズの枕はあまりにもあっけらかんとしていて、彼女たちにとってはゲームの一つだったんだろう。
悪霊に取り憑かれていたイリスは、信仰を持って立ち向かおうとしていたし、家族はエクソシストを呼ぶくらいに、熱心に助けていた。
ここまで厳しい状況に置かれた少女を、黒宮は見たことがなかったのだ。
頭では、これがよくある不幸な家庭の話だと、分かってはいる。
だが、それに何と返せばいいのかが、分からない。
神頼みの一つもしたくなるものだ、と頭を抱えていたところで、「それ」は部屋を訪れた。
「ほほ、困っておるのう、妾が祭司よ。あの魔女めに、力を掠め取られても、呑気にしておったそなたが。
娘子ひとりの、身の上話に、何とも動揺するものよ」
黒宮は我が目を疑った。
部屋に入って来たのは、夜闇のような髪を長く伸ばした、貫頭衣姿の美しい女。
間接照明に照らされて、豪奢な装身具がきらきらと、星のように瞬いて。
人の身では見通せぬ、深い深い色をたたえた瞳が、まっすぐにこちらを見つめている。
「お、おまえ……なんで、ここに……」
「先ほど、街でも顔を見せたであろう?
なに、そなたのお陰で、妾はこうして顕現することも出来るようになった。ならば、その魂に囁きかけるでも、夢見で語らうでもなく。
こうして肉を前に語っても、悪いことはなかろうよ」
彫像のように神秘的な、アルカイックな笑みを、少しだけ崩し。
悪戯めいた表情を作る「それ」を、茜は、まるで夢見心地で眺めていた。
そこから感じるのは、何か、この世界を生きる人とは、根本的に異なるもの。
そう。
これこそ、「神」と呼ぶべきモノなのだと。
魂の底で、理解する。
「さて、そこな娘子。不幸でもあるが、幸いでもある娘子よ。
そなたの不運は知っておるし、妾の祭司も困っておるでな。
今宵は祝祭ゆえ、特別に、祝福を与えよう。
そなたが失くした意味とやら、妾に委ねてしまうがよい」
「それ」が、流れるような足取りで、少女の側へとやってくる。
気付いた時には、抱きしめられ、頭を撫でられていた。よしよし、と撫でられるたび、まるで幼い頃、まだ壊れていなかった頃の母に抱かれているような、不思議な暖かさが満ちていく。
それは、待ちぼうけの夜に訪れた、遅ればせの福音
よい知らせ
で。
少女は子供のように泣き出して、「それ」に抱きつき、身を委ねた。
「よしよし、可愛い子よ。
妾は春に咲く花、秋の枯葉、満ちる月にして新月の闇。寡婦にして慈母であり、娼婦でもあるモノ。
そなたのような、春をひさいで恵みを齎す娘らは、妾の子も同然よ。
そなたらを護る神は、不在にして久しいようだからの。縋るものなき人の子らは、さぞ心細かったであろう。
なれど冬はもうじき終わる。冬至は過ぎ、やがて春がやってくる」
それは、少女に言って聞かせるようでいて。
横の黒宮へ、師が弟子に語り聞かせるように、とうとうと語られた。
「この街は、妾が守護する街であるゆえな。そなたの母も、じき心を癒やすであろう。
そうなれば、その時は優しくしてやるがよい。
そこな祭司も、助けになろうからな。
では、よき夜をな、ふたりとも。春を楽しみに待つがよい」
そうして、現れたときと同じくらいに唐突に。
「それ」は、部屋から姿を消してしまった。
「……すごい。神様、ほんとうに、来てくれた」
茜は目を輝かせ、先ほどまで身を浸らせていたニヒリズムの、欠片も感じさせることもなく。
改宗者に特有の、燃えるような熱狂を瞳に宿して、手を組み、闇の奥に祈る。
そうして騒がしい夜は終わり。
再び日常がやってくるが、もはや同じ形をしていない。
神秘の色を刻みつけられた、新たな時が始まろうとしていた。