30話 定期搾精の夜に擦れ違う
俺の部屋にルクレイアが居た。俺が招いたのだから当然だ。
今日は週に一度の「ルクレイアの日」。彼女の直談判が功を奏し、リュドミナさんから「週に一度ルクレイアに吸精されること」という命令が下っているので、ついにそれを実行する日がやって来たというわけである。
「あ、えっと……。と、とりあえず座ったら?」
有り体に言うと、俺はガチガチに緊張していた。
こんなに緊張したのはいつ以来だろう?
初めて女の子に告白した時ぶりかもしれない。
え? その時の結果?
聞くなよ……。
「失礼いたします」
走馬灯のように過去を思い出しているうちに、いつの間にかルクレイアが隣に座っていた。
とくん、と。鼓動が一段早くなる。BPM120は固い。
並び合って座る俺たちは、第三者から見ると面接中の学生といったところか。
二人とも正面を向き、ピンと背筋を伸ばしているのだから。
もっとも、緊張で身体を硬くしている俺と違い、ルクレイアはこれが自然体だ。
伸びた背筋、少し引いた顎先、静かな瞳、膝の上で整えられた指先。息を呑むほど美しい姿勢に、これから情事におよぶ卑猥さは欠片も見当たらなかった。
改めて、綺麗だなぁと思う。
最近は友人……というか悪友のような関係になっているので意識していなかったが、やっぱりルクレイアは美人だ。
あの草原の夜からずっと、俺の心は彼女に鷲掴みされたままなのだと再認識させられる。
そんな彼女とこれからセックス。
一糸纏わぬ姿になり、ベッドで身体を絡ませ合う。
それを思うだけで、全身の血流がドクドクと血管を破りそうなほど早まるのだ。BPM180といったところだろうか。
とはいえ、そこに甘い空気は感じられない。
これは愛し合う男女が愛を確かめ合う行為ではなく、ただの体調管理。ルクレイアからすれば輸血のようなもので、俺からすれば献血のようなもの。刺して抽入して終りと考えれば、然したる違いはないのだ。
――寂しいな……。
俺はそこに寂しさと虚しさを感じざるを得ない。
もちろん男として、こんな美女を抱けるのは幸せなことだろう。
だからこれは贅沢な悩みだとも分かっている。
けれど……。
愛、とは言わないまでも、なんらかの好意は欲しいよな……。
そう思いながら横を向くと、期せずしてルクレイアもこちらを向いていた。
不意に視線がぶつかり、ドキッと心臓が跳ね上がる。
「あ、ル、ルクレイア……」
「はい」
「……なんでもない」
童貞かと。
自分に激しくツッコミをいれたい俺だった。
でも仕方ないだろ?
真正面から見詰め合ってしまうと、その端整な顔立ちに尻込みしてしまうのだから。
仮に元の世界で彼女と出会っていたら、俺は声すら掛けられなかっただろう。周囲はルクレイアを放って置かないし、俺なんかがお近付きになるのは不可能に思える。そういう女性なのだ。
と……。
同じく正面に向き直っていたルクレイアが、すっと距離を詰めてきた。
拳一個分あった二人の距離がゼロになり、肩と肩が触れ合う。
吸い込む息にルクレイアの爽やかな香りが混じり、触れ合う右半身が異常な熱を持ち始めるのが分かった。
彼女に気付かれないだろうか?
不安になるほど心臓が忙しなく脈を打っている。
そのままの状態が、一分……五分……十分……。
静かに、ゆっくり、時計は進み続けていた。
――おや?
そこでようやく、俺はおかしなことに気付く。
少し落ち着いてきた鼓動が、やっと正常な思考を取り戻させてくれたのだ。
――ルクレイア、大人しすぎないか?
考えてみて欲しい。
彼女は、二言目には「ザーメンを一搾り」と言っちゃう残念系メイドなのだ。
搾っても良いと公認されている現状で、何のアクションも起こさないのは異常事態じゃないだろうか。
「どこか悪いのか? 体調が優れな――」
「壮健です。健康そのものです」
秒で返された。
ついでに溜息を吐かれたようにも思う。
理不尽じゃね?
だって相変わらずルクレイアは感情を表に出さない。
以前に比べればずっとマシだけれど、どうやらそれを知覚できるのは俺とリュドミナさんくらいのもので、周囲からは依然として無表情という評価なのだ。
そんな彼女なのだから、俺が何か見落としている可能性ってのは十分考えられるわけで、実はまた人知れず悩んでいたり苦しんでいたりするんじゃないかと心配になるのは当然だろう?
しかしルクレイアはどこも悪くないらしい。
少なくとも、その言葉に嘘はないように思えた。
ならいったいなんだというのか。
こうして部屋に来ているのだから吸精する気まんまんってのは間違いないと思うんだけど、あまりにいつもと態度が違いすぎて、俺の困惑は深まるばかりだ。
「あ、そ、そうだ! ルクレイア。お茶でも飲――」
飲むか? と聞こうとしたら、キッと睨まれてしまった。
しかも睨んだうえでルクレイアはテキパキとお茶を準備し、ものの数十秒で俺の前には香り豊かな紅茶が置かれている始末。
呆気に取られている俺を横目に彼女はスッと横に座り直し、再び静かな置物と化していた。
なんとなく、イライラしてるっぽいことが伝わってくる。
本当になんなんだよ……。
ともあれ、せっかく用意してくれたお茶だ。
カップに手を伸ばし、静かにこれを口に運ぶ。
「美味し――」
「当然です」
喰い気味の返答は苛立ちの表れではないだろうか。
え、なに? 俺? 俺が悪いの?
なんかだんだんこっちまでイライラしてきた。
せっかく今日は浴槽に浸かるのを諦め、シャワーを浴びておいたのに。
「……ルクレイア」
「はい」
「悪い。今日はナシで」
俺はそれだけ伝えると、逃げるようにシャワー室へ向かった。
熱い湯船に浸かり、頭をスッキリさせたかったのだ。
ルクレイアは追いかけて来ない。
小さく「アルムブルムの嘘付き」と聞こえた気がしたけど、意味が分からないので気のせいだろう。
シャワー室に入った俺は、蛇口を捻ってお湯を溜め始める。
大体溜まるまで十五分くらいかかるので、普段だったらその間に部屋でくつろいだりするのだが、まだルクレイアが居る可能性があるからそれは出来ない。今彼女と顔を合わせるのは非常にばつが悪いから。
俺は仕方なく、そのまま溜まり続けるお湯を見ていることにした。
ドボドボ注がれるお湯を見ていると、なんだか色々なことが頭を駆け巡る。
初めは苛立ちだった。
理解できないルクレイアの態度に、一体何がしたいのかと。何にイラついているのかと、そうぶちまけたい衝動に駆られた。
けれど考えているうちに、対象が俺へと変わる。
俺はなんでこんなにイラついてるんだ? と。
「……くそっ!」
乱暴に服を脱ぎ捨て、まだ溜まり切ってない浴槽に身を沈めた。
なんなんだよ……っ!
俺は何してんだよ……っ!
さっきの行動は、確実にルクレイアを傷つけただろう。
俺は知っていたハズだ。
彼女が夢渡りを上手く出来ていないってことを。その原因が、感情表現の下手な自分にあると思いこんでいることを。
なのに俺は拒絶してしまった。
それは、せっかく見せてくれるようになってきた笑顔を奪いかねない行為だ。
だんだんと、取り返しのつかないことをしたんじゃないかっていう後悔が胸を締め付け始めてきた。
罪悪感と、泣き出したいほどの焦燥感と、どうにもならない鬱憤が、グルグルグルグル胸のあたりで渦を巻く。
「あーーーもーーーー面倒くせぇっ!!!」
溜まり続け、許容量を超えた感情が、出口を求めて口から飛び出した。
と、その情けない雄叫びに、すぐ近くから同意の声が被せられる。
「まったくですね」
ハッと見れば、そこに居たのはルクレイアだ。
メイド服を着た彼女は、静かにこちらを見下ろしていた。