44話 エルルシーの大冒険
ふ、と。
感じるはずのない風を感じた気がして、俺は急速に意識を覚醒させていた。
当然ながら地下室だ。時計に目をやると、針は一時を指している。たくさん寝た、という感じでもないので、夜前一時ということだろう。つまり真夜中だ。
むくりとソファから起き上がった俺は、凝り固まった身体を伸ばし、そのまま少しジッとしてみる。
――ひゅぅ……
やはり風だ。
空気が動いている。
異常事態に俺は眉を顰めた。
だって有り得ないのだ。ここは堅牢な地下室であり、風の入る隙間なんてないのだから。
慌てて地上に繋がる扉を見たが、しっかり閉じているし施錠されていることも確認出来た。
ではなんだというのだろうか?
まさかエルルシーの寝息が扇風機並みってこともないだろうし…………そうだ。エルルシーは? うちの生徒は大人しく寝ているのか?
無性に気になり、俺は檻の中の様子を伺うことにした。
足音を立てない慎重な足取りは、寝ている少女を起こしたら可哀相だということもあるし、万が一淫乱化していたら大変だからだ。
だが……。
檻の前に辿り着いた俺は、予想を遥かに上回る事態に思わず声を上げていた。
「エルルシーっ!?」
いないのだ。
ベッドにも、机にも、檻の中のどこにも。
頑丈な鉄格子に破られた形跡はないし、鍵もしっかり掛かったままだというのに、金髪少女の姿は忽然と檻の中から消えてしまっていた。
どこへ行ったのか?
どうやって檻から出たのか?
その答えは、目の前にぽっかりと提示されていた。
――ひゅぅ……。
風が吹く。
檻の中の壁に、大きな穴が開いているのだ。
いったい何が起きたのか?
事故、誘拐、紅月の影響……。
様々な可能性が頭を過ぎったが、大穴の開いている場所を見て、俺はひとつの確信に至った。
――エルルシーのヤツ……っ! 最初から脱走するつもりだったな……っ!!
地下室に来たエルルシーは檻の中の様子を見て、すぐさま俺に模様替えを願い出ていた。ベッドの位置が気に入らないから動かしてくれっていうアレだ。
で、今穴が開いてる位置は、ベッドを動かしたために出来たスペースである。つまりベッドを動かさなければ、例え穴が開いたとしても通れなかった場所なのだ。
なら考えられることは一つ。
エルルシーは、あそこの壁に穴を開けられることを知っていた。
そして穴を開けて外へ出るため、俺たちにベッドを動かさせた。
そういえば前回の紅夜で俺がルクレイアに搾り殺されそうになっていた時、助けてくれたリュドミナさんはどこからともなく忽然と現れていたことを思い出す。
あの時はそれどころじゃなかったが、よく考えてみればルクレイアが鍵を掛けていたはずなのだから、誰も地下に降りてくることは出来なかったはずなのだ。
ってことは、この穴は秘密の抜け道か何かなのか?
寝ていた俺が起きなかったところをみると、力ずくで開けた穴ってわけでもないだろうし、何かそういう仕掛けがあったと考える方が自然だ。
なんでエルルシーがそんなこと知ってるのかは分からないけど。
「って、今はそんなこと考えてる場合じゃないな。早く連れ戻さないと」
うちの生徒は紅月の影響を受けたメイドたちがどんな感じになるのか興味津々だった。きっとこっそり様子を見に行ったのだろうと推測できる。
まぁエルルシーも女の子なわけだし、そもそもサキュバスなのだから滅多なことにはならないと思うが、しかし保護者として放置も出来ないだろう。
首根っ子捕まえて連れ帰り、お仕置きしなければならない。そうだな。お尻ぺんぺん三十回ってところか。
「たく……。こっちは命賭けになるんだからな?」
正直なところ、外に出た場合の危険性は俺の方がダントツで高い。
淫乱化したメイドに見つかれば即座に襲われ、どっぴゅり……じゃなかった。ぽっくり搾り殺されてしまうのだから。
それを想像しブルッと身震いした俺は、恐る恐ると檻に入り、壁に開いた穴の奥を覗き込んでみた。
どうやら中は通路になっていて、すぐに地上へ昇る階段があるらしい。ほんの少し向こうの天井から、僅かに光が零れているのが分かる。
ゆっくり、慎重に、その通路を進んで行く。
万が一誰かに見つかってしまったらダッシュで来た道を戻り、檻に鍵を掛けなければならないのだ。
逃げる算段を頭の中でシミュレートしながら進んでいると、早くも道が突き当たり、上から梯子が掛かっているのが分かった。足音を立てないようにそれを昇り天井に手を当ててみれば、どうやら横にずれるらしい。これをずらせば地上に出られるということだろう。
耳をすませて周囲に気を配り、ほんの少し天井をずらして外の様子を覗い、十分安全が確認出来たところでひょっこり顔を出す。
梯子の上は、物置部屋の中に通じているようだった。
「さて……。あとはエルルシーを探さなきゃいけないんだけど……」
とはいえ広い屋敷の中だ。探すといっても簡単ではない。
それにメイドたちは基本自室に篭っているらしいが、確実に安全ってわけではないしな。
ってことで、周囲を警戒しながら俺は屋敷内を進み始める。
壁に背を擦り付けるように進む姿は、昔のスパイ映画を彷彿とさせるかもしれない。
実際は逆レイプされるか否かという状況なので、なんだか間抜けな気がしないでもないけど。
――スタスタ……
――コソコソ……
難航するかと思われたエルルシー捜索だったが、しかし俺の予想を裏切り、不良生徒はわりとあっさり見つけることが出来た。
廊下の角。小さくうずくまり、身を隠しながら通路の向こうを覗き込んでいる金髪を見つけたのだ。
「こんなとこで何してんだ? もちろん覚悟は出来てるんだ――」
「シ――ッ! 声を出すなぜ」
後ろから咎めようとしたところ、逆にエルルシーが俺の口を塞いできた。
あまりに真剣な様子に意表を突かれ、思わず口を閉ざしてしまう。
「あのメイド、何してるんだぜ……?」
エルルシーの言葉に釣られて俺も廊下の向こうを覗き込むと、ちょうどメイドが部屋から出て来て、チラチラと周囲に視線を配っているところだった。
距離があるし、なにより紅夜ということで屋敷内の照明が落とされているため、その姿をはっきり確認することが出来ない。
「あれ誰だぜ?」
「分からん。暗すぎて見えねぇよ」
とはいえ、どうにも周囲を警戒しているように見えるメイドに、こちらから近付くのはリスクが高すぎるだろう。どうしようもなく見守っていると、やがてメイドは廊下の角の向こうに消えてしまった。
「センセー。追うぜ」
「は? なんでだよ? そんなことより早く地下に戻るぞ」
「ダメだ。アタシの勘がビンビン囁いてるんだぜ」
「お、おい……っ! くそっ!」
俺の制止も聞かず、エルルシーがそのままメイドの尾行を開始してしまった。
ここまで来てさすがに少女を置いては戻れない。心の中で、お尻ぺんぺんの回数を二十回ほど上乗せした俺は、仕方なくエルルシーの後を追うことにしたのだった。
……。
「どこまで行く気だよ。屋敷から出ちゃったじゃねぇか」
「やっぱり何かおかしいぜ」
こうなってくると、さすがにエルルシーの方が正しい気がしてきていた。
相変わらず距離があるのでメイドが誰なのかは判然としないが、紅夜の最中に屋敷から外へ出るなんて絶対おかしいのだ。
それになにより、あのメイドは周囲を警戒しながら慎重に進んでいる。つまり正気を保っているように見えるのだ。
「夢渡り前のサキュバス?」
「かもしれないけど、それにしては成長しきってるように見えるぜ」
確かに。
少なくともエルルシーより身長は上だろう。
身のこなしを見た感じでも、子供のような仕草は見られない。
ますますもって不可解だった。
考え込む俺たちをよそに、メイドは迷いなく道を進み、やがて森の中へと姿を隠してしまっていた。
この一ヶ月近く一歩も外へ出ていなかった俺なので、今更ながらに「あ、ここ異世界かぁ」なんて感慨深くなってしまう。
ちなみにこの森は大した広さではなく、屋敷と街を隔てている程度のものらしい。
「ここまでだな。正体は知りたかったが、これ以上屋敷から離れるわけにはいかないだろ」
「……そうかも……だぜ」
ただでさえ暗いのに、月の光の届かない森の中は真っ暗である。
警戒しなければいけない危険が、淫乱化したサキュバスから野性動物にシフトチェンジだ。
前者であればエルルシーの危険は少ないけど、後者であれば少女にまで危険が及ぶのは想像に難くない。
ちなみにどちらであれ、俺が命を落とすのは間違いないだろう。異世界危険、マジ危険。
不良生徒もそのくらいの危機意識はあったらしく、俺の説得に渋々ではあるが頷いていた。
お仕置きはあとでたっぷりするとして、まずは地下へ帰るか。
そう思って少女の手を引き、森に背中を向けた、その時だった――
「ちんぽおぉぉぉぉっっ!!」
「センセーっ!?」
突如背後から襲われたのだ。
後ろから覆い被さるようにしてきた女性に、俺は成すすべもなく押し倒されてしまう。
見上げた視界に映ったのは、メイド服ではなく町娘のような格好の女性だ。
「ちんぽっぽおおぉぉぉっっ!」
もちろんご乱心である。
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