86話 これから永久に寄り添って
どうやらリュドミナさんは俺が拉致られる可能性を考え、前もって監視を付けてくれていたらしい。それが今回の迅速な救出劇に繋がったのだとノルンが教えてくれた。
ちなみに救出部隊はお屋敷のメイドたちで構成されており、俺が監禁されていたアジトはすでに制圧済みだ。ネイアローゼや柳下さんを含め、二十名ほどのサキュバスが捕縛される大捕り物となったのである。
なんだか凄まじく長い一日だったな……。
身体はボロボロだし、疲労感が半端ない。
もちろんコルネリアーナの企てを放っておくことは出来ないので、ノルンとニーアには俺が知り得た情報を全て話してある。すると二人はメイドさんたちにテキパキと指示を出していた。意外な一面に驚きを隠せないが、これなら任せても大丈夫だろう。
となれば、すぐにでも休みたい。
本当に限界なのだ。
ノルンとニーアに付き添われ、ふらふらになりながら、俺はようやくお城の部屋へと戻って来た。
すると
「誠くん……っ!」
部屋に入った瞬間、涙を浮かべたアルムブルムさんに抱き着かれてしまったのだ。ルクレイアに至っては、安堵の息を吐きながら包丁を握り締めてる始末である。
お礼参りの準備は万端。言わんばかりの殺気に、息子さんも縮み上がってしまいそう。
「ごめんな二人とも。心配掛けた」
「うん……っ、ホントだよ……っ! すっごく心配したんだから……っ。でも……おかえりっ」
無理して笑顔を作るアルムブルムさんを抱き締め、ルクレイアも抱き寄せれば、ようやく彼女も落ち着きを取り戻した様子だ。「ザーメン千回ですね」と聞こえた気がするけど、それは聞かなかったことにしたい。
ちなみに、付き添ってくれたノルンとニーアの下には、今も引っ切り無しにメイドさんたちが報告にやって来ている。事後処理やコルネリアーナの件で忙しいのだろう。
「あ、お兄さんは休んでいいよ。あとはノルンたちの仕事だから」
俺の視線に気づいたノルンは、そう言いながらも報告に耳を傾けたりメモを取ったりしていた。俺が近くにいても邪魔になるだけなので、ここはお言葉に甘えた方が良さそうである。
ということでルクレイアとアルムブルムさんに寝室まで連れて行ってもらった俺は、さっそくくたびれた身体をベッドに沈みこませた。目を閉じるまでもなく、すぐに眠気が襲ってくる。
だが眠気に任せ、意識を手放そうとした、まさにその時だ。
「主様がっ!!」
駆け込んできたメイドさんが、ノルンにとんでもない報告をしたのである。なんとリュドミナさんが、たった一人でコルネリアーナの屋敷に向かってしまったらしい。
コルネリアーナといえば、俺を監禁した黒幕だ。となれば寝てなどいられない。疲れきった身体に鞭を打ち、コルネリアーナの屋敷へと急行することにした俺なのであった。
――そして現在。
俺はもちろん、共に来てくれたルクレイアやアルムブルムさん。それにニーアやノルンまでもが、目の前の光景に言葉を失っていた。
「これは……なん……何があったんです……!?」
門番さえ見当たらないコルネリアーナの屋敷は異様だった。屋敷の中はもぬけの殻で、夥しい血痕が至るところに付着していたのだ。血の海と呼んでも差し支えないほどである。
それに壁と言わず天井と言わず、あらゆる場所に戦闘の痕跡が刻まれている。ここで凄まじい戦いがあったのは一目瞭然だった。
リュドミナさんは無事なのか?
濃厚過ぎる血の匂いに胃がせり上がりそうだが、それを無理やり押し込め、俺たちは手分けをしてリュドミナさんを探し始めた。すると二階の最奥。小さな部屋の中で、床に横たわるリュドミナさんを発見したのだ。
「リュドミナさんっ!!」
駆け寄り、その身体を抱き起す。
彼女が好んで着ている紫色のドレスはボロボロになるほど切り刻まれ、大量の血で真っ黒に変色してしまっていた。頭からも出血しているのか、優し気に垂れた目元が真っ赤に染まってしまっている。
なんでこんなことに……っ!
袖で彼女の顔を拭いながら、俺は必死に呼びかけた。
すると……。
「まこと……さん……?」
リュドミナさんが意識を取り戻した。
とはいえ今にも消えてしまいそうなほど弱々しく、平素の柔らかさは影を潜めている。そんな彼女の姿に涙が溢れそうになってしまうが、それを振り切り俺は声を掛け続けるのだ。
「はいっ。誠ですっ。リュドミナさんのおかげで無事に助けてもらいましたっ!」
「そう……よかった……わ……。それだけが……心残りだったからぁ……」
「何を弱気なこと言ってるんですかっ! 気をしっかり持って下さいっ!」
必死な俺の声が聞こえたのか、屋敷内を捜索していたメイドたちが次々集まってきた。
しかし彼女たちの反応は一様で、息を飲み、口を押さえ、わなわなと立ち尽くすばかりである。
「誰か治療をっ!」
思わず声を荒げたが、動き出す者はいない。
たぶん彼女たちは分かっているのだ。
もう、リュドミナさんを助けることは出来ないのだと。
――ふざけるなっ!
そんなこと認めるわけにはいかない。
彼女を死なせてなるものかっ!
そう思い治療できる場所へ運ぼうと立ち上がりかけた俺の腕を、リュドミナさんがそっと掴んできた。
「無駄よ……。助からないわ……」
「なんでっ!? なんでそんなこと言うんですかっ! そ、そうだっ! 精液を摂取すればなんとか――」
「この傷だもの……精を得たところでどうにもならないことくらい……誠さんにも分かるでしょう……?」
「そんなのやってみなきゃ分からないじゃないですかっ!」
けれど俺の希望を否定するように、リュドミナさんはゆっくり首を振ってしまう。
「それに、わたくし……あの人以外から精を得るつもりはないの……」
……え?
あの人……?
思いがけないリュドミナさんの言葉だったが、しかし俺はすぐに思い当たった。
最初から「愛」を知っていたリュドミナさん。
一度も俺の精液を摂取しなかったリュドミナさん。
いつもムーンシャインを食べていたリュドミナさん。
なにより彼女が言った「あの人」という言葉はとても温かな響きを持っていて、恋する乙女のような声音だったのだ。
つまりリュドミナさんには、愛しい誰かがいるのだろう。
「誠さん……」
呼びかけられて意識を向けると、リュドミナさんは震える手で何かを握り、俺に差し出して来ていた。
慎重に受け取り、手の平に乗せられたそれを見てみる。
小さなメダルだった。
表面には、四本の槍と戦乙女が描かれている。
「ヘリセウス家の家紋。四大淫魔貴族の証です」
後ろから覗き込んでいたルクレイアが説明してくれたが、何故それを俺に渡すのか分からない。どういうことかとリュドミナさんを見れば、女主人は細く息を吐いた。
「誠さんに……これを託すわ……」
「どうして俺なんかに……」
「わたくしの娘たちを……愛して、くれたから……。誠さんならあの娘たちを……ごほっ。……より良い未来に……導けるわ……」
言いながら、リュドミナさんの身体から力が抜け始めているのを俺は感じていた。もう彼女の命は幾何も残されていないのだ。
「ローレンシアを……娘たちを……この世界を…………お願い……ね……?」
「リュドミナさんっ!!」
腕の中。ゆっくりとリュドミナさんの瞼が閉じられてしまう。
すると同時に、不思議なことが起こり始めた。リュドミナさんの身体が光を帯び、だんだん軽くなってきたのだ。
「月に……主様が……月に帰られてしまう……」
そう言ったのは誰だったか。
ようやく俺は、それが彼女の死を意味するものだと理解した。サキュバスが月に帰るとは比喩ではなく、身体が光に溶け、本当に月へ昇って行ってしまうのだ。
「ねぇ……まことさん……」
目を閉じたまま、リュドミナさんが口を動かした。もう消え入りそうなほど儚い声だ。
俺はその言葉を一つも聞き漏らすまいと耳を近づける。
「人間は……死んだら土に帰るのでしょう……?」
それは、酷く悲し気な声だった。
「月と土では……遠すぎるわねぇ……」
あ……っ!
彼女が言わんとしていることに気づき、俺は胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
そうか……っ。
リュドミナさんが愛した人は、もう死んでしまっているのか……っ。
だから彼女は今日まで生き永らえてきたのかもしれない。
月に帰ってしまったら、もう土に触れることが出来なくなるから。
死んでしまった「あの人」が、さらに遠くへ行ってしまうから。
それは、健気さすら感じる純粋な愛だった。
リュドミナさんは「あの人」と会えなくなってもなお、少しでも「あの人」の近くに居続けたかったのだ。
胸が痛い。
目頭が熱くなる。
視界が滲んでリュドミナさんの姿がちゃんと見えない。
腕の中。
どんどん光に溶け、重さを失い、透明になりつつある彼女。
この優しい女性が。
愛しい女性が。
愛に一途であり続けた女性が。
悲しい思いをしながら消えて行くのを、俺は見過ごすことなんて出来なかった。
「違いますよリュドミナさん」
「まこと……さん……?」
「確かに人の身体は土に帰ります。でも、魂は土に帰りません。星になるんです」
「ほし……に……?」
「家族や友人、愛しい人たちを見守り続けるために、人の魂は死んだら星になるんですよ。ずっとずっと月に寄り添いながら、ひっそり輝く夜空の星に」
消えかけていたリュドミナさんの顔が、ふっと和らいだ気がした。
「そう……そう、なのね……。ありがとう……まことさん……。ちゅ~……して、あげましょう……か……?」
ふふっと微笑んだような気がする彼女に、俺は迷わず口づけをした。
しかし唇が重なったと思った刹那……もうそこに、リュドミナさんの姿はなかった。完全に光となり、彼女は月に溶けたのだ……。
余りに呆気なくて、余りに綺麗で、余りに静かな最期。
嘘のように消えてしまったことが信じられず振り返ると、メイドさんたちが口を覆っているのが見えた。口を覆い、誰しもが嗚咽を堪えきれずにいるのだ。
実感が沸いてきてしまう。
リュドミナさんは死んだのだと。
妖艶で優しい彼女は、もう二度と戻らないのだと……。
「リュドミナさああぁぁぁぁんんんんッッ!!!」
自然と俺は、天を仰いでいた。
天を仰ぎ、彼女の名を叫んでいた。
叫ばずにはいられなかったのだ。
すると涙で滲む視界の遥か彼方。
幻かもしれないが、俺にははっきり見えた気がした。
優しく微笑む男性の下に、小走りで駆けていくアメジストの後ろ姿が……。
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