89話 戦場に響くのは…
―― ローレンシア視点 ――
ひゅぅ……。
草原を走り抜けた風は戦いが始まる予兆か、それとも自分の心に吹き付けた臆病風か。
「多い……ですね……」
視界一杯を埋め尽くす松明の灯りに、ローレンシアは唇が渇くのを感じた。
まだ距離があるため全容は見えないが、こちらに迫るコルネリアーナ軍は松明を掲げており、その総数がこちらより多いことが見て取れる。
王都から遠く離れたことで地の利を失い、兵数で負け、加えて指揮官は若輩者の女王。
対する相手は四大淫魔貴族にして百戦錬磨のコルネリアーナ・バファフェットだ。
――負けるかもしれない……。
弱音が口から零れそうになったところで、不意に声が掛けられた。
「不安に思う必要はありません」
ローレンシアが跨る白馬と違い、夜に溶け込みそうな漆黒の馬に跨っているのは、戦場に似つかわしくないメイド服の女性だ。藍色の髪をかきあげたルクレイアは、津波のように押し寄せてくる無数の松明を指差しながらも平然と言ってのけた。
「実際のコルネリアーナ軍はあの半分ほどです」
「そ、そうなのですか?」
「はい。彼女等は一人二本の松明を掲げることで、実数を多く見せかけているだけですから」
誠の代わりにヘリセウス軍を率いて参戦するルクレイアには、気負ったところが見られない。今も冷静に敵を観察し、それが虚仮威しだと言い当ててみせた。馬上でお茶会をしているかのごとき気楽さは、ムーンシャインを摘まんでいる姿を幻視するほどである。というか摘まんでいた。
「こ、こんな時によく食べていられますね……」
僅か数刻後、ここは血で血を洗う戦場になるのだ。
それを思うと水すら喉に詰まりそうなローレンシアからすれば、ルクレイアの落ち着きっぷりが異常に映るのも無理はない。
「心配いりませんよ。女王陛下が考えているようなことにはなりません。ピクニックみたいなものだと思えば良いのです」
「ど、どういうことですか……? ここに誠さんがいないことと関係あるのですか?」
ローレンシアは自軍に目を凝らし、やはり彼の姿が見当たらないことに落胆を隠せなかった。
――護ると言ってくれたのに……。
けれど仕方ないとも分かっている。
これはサキュバスの戦いなのだ。人間の男が命を賭ける必要も、約束を守る義理もないのだから。
それでも落胆してしまうのは、心のどこかで甘えているからだろう。
――こんなことではいけない。
わたしは女王なのだから。
おばさまがいなくても、しっかりしなければっ。
弱気になり、乗り越え、怖気付き、捻じ伏せ……。
この十日余りで、ローレンシアは何度も何度もその作業を繰り返していた。
それは鉄を鍛えることに似ていて、そのたびに彼女の心は強くたくましく鍛え上げられているのだ。
しかし加減を間違えればポッキリ折れてしまうこともある。
今まさに、ローレンシアの心はギリギリのところで保たれていると言えよう。
と、その時。
「おぅっ! おぅっ! おぉぉーっ!!」
コルネリアーナの軍勢から、鬨の声があがった。
地平を揺らすほどに大地を踏み鳴らし、その偉容を見せつけてきたのだ。
その迫力は凄まじく、跨る白馬が後退りそうになるのをローレンシアは必死に押さえつける。
――いよいよ戦いが始まるのだ。
緊張感が、草原を満たし始めていた。
戦場での作法に則れば、まず言葉合戦があり、名を馳せた武人による一騎打ちがあり、強者同士のイかせ合いがあり、最後に全軍がぶつかることになる。
ドクン、ドクン……。
早まっていく鼓動。
自分の身体とは思えないほど感覚がフワつき始め、ローレンシアは落馬しないようしがみ付くだけで精一杯だった。
そんな中、整然と並んでいたコルネリアーナ軍の中心が真っ二つに割れ、一人の女性が進み出て来る。
夜の闇より暗い漆黒の空気を纏い、にも関わらず誰よりも圧倒的な存在感を示す女性。
コルネリアーナ・バファフェットだ。
「ローレンシア・ハートランド。世の危機に際し何の手立ても打てぬ飾り物の女王よ。名ばかりとはいえ、まだ女王としての矜持が欠片でも残っているのなら名乗り出なさい」
張り上げたわけでもない声は、しかし闇に溶けるようにスーッと人々の耳に届いた。
それはもちろん、ローレンシアの耳にも届いている。
身体が震えた。
心が萎えた。
耳を塞ぎ、目を瞑り、口を閉ざして立ち去りたかった。
だがローレンシアはグッと唇を噛みしめ、馬の腹を蹴る。
敵、味方、コルネリアーナ。全員の視線を一身に浴びるのを感じ、身体が縮こまりそうだ。
それでも行かなければならない。
自分は女王なのだ。器じゃないことなど自分が一番良く知っているが、それでもわたしは女王なのだから、と。
やがてローレンシアを乗せた白馬がゆっくり歩き出す。
両軍睨み合う戦場のど真ん中。コルネリアーナの顔がはっきり見える位置まで近づき、女王は顔をあげた。
「よくもおばさまを……っ」
つい口から零れた言葉に、コルネリアーナが鼻を鳴らした。
「この土壇場でそのような私事。月に帰ったヘリセウスが浮かばれないねぇ」
「あ、貴女がそれを言うのっ!?」
「あたしだから言えるのさ。あいつは……ヘリセウスは最後まで国を想っていた。あいつの失敗はあんたを切れなかったことさね」
「――ッ!!」
知らず、ローレンシアは手綱を握り締めていた。白い素肌がさらに白く変わるほど、強く強く握り締めていた。
「言い返せもしないじゃないか。なんならここであたしを討ってみるかい? 一騎打ち、応えてやってもいいんだけどねぇ?」
安い挑発だとは分かっている。
けれどローレンシアは剣を抜いた。
それはリュドミナを貶められたことに対する怒りであり、不甲斐ない自分への叱咤であり、このような戦いで兵を、民を失ってはならないという女王の矜持でもある。
コルネリアーナが、少しだけ頬を緩めた。
嘲笑ではなく、侮りでもなく、初めてローレンシアを認めた微笑みを。
「ここであんたを討ち、あたしらは人間の世界へ行かせてもらうよ」
「人間の世界へ……?」
「そうさ。あんたら王族が隠している異世界への道。それを解放し、人の世界の一部をあたしらサキュバスの物とし、いつでも生の精液を得られるようにする。そうすれば、もう誰も苦しまずに済むからねぇ」
初めて聞かされたコルネリアーナの目的に、ローレンシアは目をしばたたかせた。
ただ権力を求めるだけではなく、ただ頼りない女王を排斥するだけではなく、コルネリアーナも正しくサキュバスたちを想っての行動だったのだと初めて気づいたからだ。
けれど……。
「ま、待ちなさいコルネリアーナ。異世界への道を王族が隠している? いったい何のことです!?」
「惚けるんじゃないよ。先々代の女王が隠したっていう異世界へ通じる通路のことさ」
「た、確かにそのようなものがあったとは聞いておりますが、先々代の女王の時代に失われたはずです! 隠すどころか、どこにあるのかすら分からないのですよ!?」
「分からないはずないじゃないか! そんなに独占したいのかい! どうせ城の最奥にでも隠しているんだろう!?」
「城内のことは隅々まで把握していますが、そんなものがあるなどと聞いたこともありません! すでに失われているのです!」
ローレンシアの剣幕に、コルネリアーナは迷いが生じるのを感じた。
嘘……ではない? 本当に……本当に失われているのか……?
だったら自分は何のために……。
とはいえ、引き返せる場所など当の昔に過ぎ去っている。
コルネリアーナもまた剣を抜き、悲し気に首を振った。
「……だとしても、あんたをこのまま女王にはしておけないさね」
そして彼女の乗った馬が、一歩、二歩と後ろへ下がった。
それを見たローレンシアもまた、白馬を数歩下がらせる。
これは、ぶつかり合うための助走。
次に馬が走り出した時が、決着の時なのだ。
ひゅぅ……。
戦場を吹き抜ける風は酷く冷たく、重々しい静寂が辺りを包んでいた。
勝てる……とは、微塵も思えなかった。
それでも剣を向けるのは、せめて一矢報いたいからだ。
リュドミナの仇を。女王としての矜持を。全てをぶつけるために、ローレンシアは今――
――ジャンジャカジャーン、ジャンジャカジャーン、ジャンジャカジャッジャッジャンジャカジャーン♪
白馬が駆け出そうとした、まさにその時だった。
どこからともなく、突然謎の音楽が大音量で鳴り響いたのだ。
「な、なにごとですかっ!?」
慌てているのはローレンシアだけではない。
敵軍も、自軍も、コルネリアーナでさえ謎の怪現象に首を左右に振っていた。
なにせ草原一帯に響き渡る大音量なのだ。
余程の大楽団でも用意しなければ不可能な音量なのに、どこを見渡してもそんな者たち見当たらないのである。
ざわざわと波紋のように混乱が広がる中、それでも謎の音楽は軽快なリズムを奏で続けた。
すると遠くから、一騎の馬が駆けて来るのが見える。
……いや、馬だろうか?
馬より速く、嘶きとはとても思えない音を出しながら、何かがやって来ているのだ。しかも不思議なことに、この大音量の音楽はその馬から聞こえてきているようだった。
「まったく……。遅刻ですね」
スッとローレンシアの耳に届いた声。
振り返ると、藍色の髪のメイドが安堵にも呆れにも見える顔で、駆けて来る馬を見つめているのが分かった。
やがて馬は、戦場のど真ん中。ローレンシアとコルネリアーナの間にやって来る。合わせてピタリと音楽も止まり、騒然としていた戦場に静寂が戻った。
そんな中、悠然と馬上で手を挙げた男――誠が高らかに声を響かせる。
「戦争、止めに来たぞっ!」
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