33: 穏やかじゃない!? 第一次栗拾い合戦!(終)
火箸で拾ったイガ栗を、月夜の差し出した丸い竹籠の中に入れていく。が――
つるん、ぽて。
と結構な頻度で失敗していた。
「けっこう難しいな……」
箸が大ぶりかつ鉄製のため思った以上に扱いづらい。ゴミばさみがあれば楽に拾えるんだが、まあ無いものはしょうがないよな。
「わたしも拾いましょうか……?」
月夜がひとつ、ふたつ、と華麗に火箸を操りカゴへと栗を入れていく。お手本のような見事さ。
「おお、うまいもんだな」
「えへへ……」
「よし、じゃあ月夜も頼む。栗はいっぱい転がってるから、とりあえずこの辺りで拾って、なくなったら場所移動してまた拾おう」
「かしこまりました!」
作業の流れが決まり、栗拾いに精を出す俺たち。
とつぜん勝負事になってしまい、月夜としては面白くないんじゃないかと心配したが、見ると一生懸命に栗を拾っており、月夜は月夜で楽しんでいるようだ。
「あの、お兄様……。どうかなさいましたか……?」
俺の熱視線に気付いた月夜が、恥ずかしげに狐耳をぴこぴこさせる。
「いや……、月夜の真剣な面持ちって珍しいから思わず見惚れちゃってた」
「見とれ……、はうぅ……、恥ずかしい、です……」
「ごめんごめん。でも月夜なりに楽しんでくれてそうで良かった。俺もがんばらなきゃだな」
「月夜もがんばります。燐火お姉様に勝ちましょう!」
おー! といっしょに気合いを入れ、栗拾いを再開。
「慣れると火箸でもけっこう拾えるもんだ」
ひょい、ひょい、ひょい、とイガ栗を拾っていたそのときだった。
新たな栗に箸を伸ばすと、ころころと逃げられてしまった。
「は……? え、なに今の」
もう一回伸ばしてみるが、それを見計らったようにころころと転がり逃げられてしまう。
「異境の栗林でー、動く栗にー、出会ったー」
精神を落ち着かせるため某TV番組風に言ってみたが……。
あ、これひょっとして栗の妖怪なのか……?
「おい月夜、栗の妖怪が出ちゃったんだが……」
「あぅ……、逃げちゃ駄目だよ……」
本職に助けを求めたところ、月夜も火箸からころころと逃げる栗に苦慮していた。
「おいおい月夜もか……、いや、違う」
よく見ると俺たちが追いかけてる栗だけじゃなく、辺りの栗が一斉に動き、一つ所を目指し動いていた。
その先に居たのは――
「燐火……?」
栗が自動的に燐火のところを目指して転がり、寄り集まってこんもりとした小山を形成していた。
あ――
これ、術つかってやがるな!?
「ずるいぞ燐火! さすがに術の使用は反則だろ!」
「ふふん。あたしは使わないなんて言ってないし、むしろ“狐の力を示す”って言ったんだからこれぐらいのことはするわよ」
「屁理屈こねんな!」
真面目に拾ってた俺たちが馬鹿みたいじゃないか。
とりあえずひとつでも多く栗を確保するため、足元でころころしていた栗に箸を伸ばす。が、それを見越したようにスピードが上がり、逆に火箸を取り落としてしまった。
そんな俺を観察していた燐火が、意地の悪い猫のような笑みを向けてきた。
「あらあらまあまあ。史郎ってばどんくさいのねぇ。それにまだカゴ半分しか集められてないの? これはあたしの勝ちが確定しちゃったのかしらん? おーほっほっほっほっほ!」
「あんにゃろめ~~~! 月夜月夜! 月夜はああいう引き寄せの術みたいなの使えないのか?」
「あ、はい……。いちおう使えますけど……」
「おお、ナイスだ!」
月夜を仲間に引き入れておいたのは、まさにこういう事態を想定してのこと。
自分の先見の明に満足していると、しかし月夜は俺の期待とは裏腹に、弱気な声を出した。
「でも辺りにもう栗がありません……。ちょっと先の林にまだ転がっていると思いますが、燐火お姉様がすでに向かわれたもようです……」
月夜の言葉の通り、燐火の姿はなかった。後から追いかけたとしても到着した頃には燐火がすべての栗を確保してしまっているだろう。
現時点での栗の獲得量は――
俺たちがカゴ半分。
燐火が小山ひとつ分。
大ピンチといえる状況だ。しかし。
「大丈夫だ、問題ない。アレをコッチに移せばいいだけなんだから」
燐火の栗を指し、次いで俺たちの栗籠を指すと月夜は口をあわあわさせた。
「お、お姉様の栗をとっちゃうってことですかっ!?」
「イグザクトリィでございます」
「そ、それは寝首を掻くような行為ですよぉ、お兄様ぁ!」
「何を言ってるんだ、先に仕掛けてきたのは燐火の方だぞ? 遠慮することはない、やっちまおう!」
「で、でもでもぉ……」
「さあさあ月夜ちゃ~ん……、悪事に手を染めちゃいましょうねぇ〜……」
「ふぇえぇえぇん……」
強引に月夜を説得した俺は、燐火のリアクションを見越した、さらなる秘策をひそひそと囁き――
◇
「向こうの栗林に来なかったってことはもう勝負を諦めたってことかしら!? 見なさい、この栗の量を! 勝負はもらったわ!」
戻ってきた燐火は意気軒昂な様子でかき集めた栗を指差した。そこにはやはり小山ほどのイガ栗が積み上がっている。
「やるな。だが俺たちもだいぶ集めたぞ!」
背後に積み上げた栗の山を示し、獲得量をアピール。
「んなっ!? どこからそんなたくさんの栗を……。おかしいわね、この辺りは拾い尽くしたつもりだったのに……。でもいいわ、さっき集めた栗とこれを合算すればそれぐらいの量は軽く――あれ?」
落ち葉が積もっているだけのスペースを前に、猫のようなつり目を瞬かせる燐火。栗が無くなっていると気づいたようだ。「どこにいったのかしら」とつぶやきつつ空間をためつすがめつし――、察したように顔を上げ俺を睨みつけてきた。
「盗ったわね!?」
「人聞きが悪いなー。そこに転がっていた栗をかき集めただけじゃないか」
「転がってたんじゃないわよ! あたしが保管しといたの! 返しなさい!」
「返すも何も、俺たちの手元にある以上、もうこっちのもんだ。諦めてもらおうか」
「言ってくれるじゃない!」
燐火が俺たちの栗山に向かって手を突き出す。またあの引き寄せの術を使うつもりなんだろう。
「そうはさせるか! ――月夜!」
「は、はい!」
俺の呼声に、木陰から月夜が飛び出す。そして対抗するように掌を突き出し引き寄せの術を放った。
「月夜!? ちょ、ちょっとやめなさい! お姉ちゃんに逆らう気!? 怪我をするわよ、今すぐそこを退いて!」
「ごめんなさいお姉様……! でもここは退けないんです……! お兄様のためだから……! わたしは! お兄様のためならどんな悪事にでも手を染めてみせます!」
タチの悪いチンピラに惚れてしまったせいで闇堕ちした元・優等生みたいなことを言う月夜。
いやうーん、大筋はその通りなんだけどもう少しマシな表現にしてほしいというか……。言うほどの悪事でもないしね……。
「純粋無垢だった月夜がこんな悪い子になるなんて……! こんなことならあんな変態性欲種付け男なんて連れてくるんじゃなかった……!」
え、そこまで言っちゃう!?
「お兄様を悪く言うのはやめてください……!」
より力をこめて引き寄せの術をぶつけ合うふたり。
互いの距離は約10mほど。その中間地点で力と力が衝突し、空気の渦のような斥力場が出来ていた。それによって周囲の木が揺れに揺れ、木の葉が舞い上がってすごいことになっている。まるでバトル漫画の世界だ。
で、ふたりがそうしてる間に俺が何をやっているかというと――
「イガ栗は俺様がいただくぜ~」
狙った獲物は必ず奪う神出鬼没の大泥棒のようなセリフを吐きながら、燐火のイガ栗をこっそりと竹籠に詰め詰めしていた。
「これを何往復かこなせば俺たちの勝利は確定的なものに……」
「そうはさせないわよ、このこそ泥めッ!」
それに気づいた燐火が、引き寄せの術を俺に向けてくる。
「わっ、馬鹿っ!」
重力が消失したような感覚が全身を包む。空を泳ぐようにもがいてみるが術から逃れることはできず――
むにょんっ!
燐火の胸に飛び込んだ俺は、その勢いのまま柔らかな肢体を押し倒してしまった。しかも新鮮な果実のように瑞々しい乳房を揉み揉みしながら、というオマケつき。
「あっ、あんたねぇっ……!」
「燐火っ!」
ヒクッ――、と頬を震わせ怒気を露わにしかけた燐火の機先を制するように大声で呼びかける。
「な、なによ……」
体を震わせ、急に勢いを失くす燐火。
「綺麗だ……」
「きゅ、急になに言うのよ……」
甘い一言を放つと、燐火は嫌がる素振りを見せながらも瞳を潤ませていく。
「さっき言っただろ? 打掛姿を一目見たときからその大人っぽさにドキドキしたって……」
火照った頬をひと撫でした後、せわしなく動いていた狐耳に手をやったが燐火は抵抗しなかった。
そして何かをねだるように薄く開いた瑞々しい唇に、顔を近づけていく。
「だ、駄目……。こんなところで……」
「今さらだろ……? 初めて心と体を通わせた場所が外だったのに……」
「で、でも……」
「サイドポニー、似合ってるぞ……。ほら目をつむって……、俺を受け入れるんだ……」
「んっ……!」
そう言ってさらに顔を近づけていくと、燐火は観念したように目をつむった。
そして唇が重なりかけたその瞬間――
「じ、時間です! 四半刻たちました!」
日時計担当の月夜の声が、栗林に響き渡った。
「よっし。月夜、栗の移動は完了してる?」
目をつむりキスを待ち受ける燐火を放って体を起こした俺は、月夜に確認を取った。
「は、はい。移動、し終えています……」
念のため自分の目でも確かめると、月夜の言葉どおり、燐火がよそからもってきた栗の山も、俺たちの陣地に吸収されていた。
これで栗の獲得量は――
俺たちが小山ふたつ分。
燐火はほとんどゼロ。
これは数えるまでもなく――
「俺たちの大勝利! 作戦勝ちだな!」
「作戦……?」
「おうともさ!」
その質問に、俺は秘策の内容を振り返った。
まず燐火が別の栗林へと行っているあいだに置かれていた栗を強奪する。戻った燐火は当然それを奪い返そうとするだろうから一旦は月夜に対抗してもらう。で、その隙を突いて俺が暗躍すれば月夜は囮だったかとこっちに矛先が向くだろう――けど、それが一番の罠。俺こそ真の陽動。燐火の注意が俺へと向いた間に全部の栗を月夜にかっさらってもらう、と。そういう策だったのさ。
「俺と月夜の連携プレーの結果がこれこの通りってわけ」
「ふーん……」
「謀って悪かったが、これも勝負のうちだとご理解いただいて……」
「へー……」
勝利に酔い、周囲が見えなくなっていた俺は、ここでようやく燐火の放つどす黒いオーラに気づいた。
あれ……、ひょっとしてご理解いただけていない……?
「ちょっと待て、落ち着くんだ燐火。騙すのも騙されるのも勝負事にはつきものだから――」
「史郎の……」あ、これヤバいと思ったときには既に手遅れ。「ばかぁあぁあぁあぁあぁあぁあぁっ!!」
「ぶべらっ!?」
キレイなアッパーカットをもらった俺は、きりもみしながら宙を舞うことになった……。すごく……痛かったです……。
◇
「史郎のばかっ、ばかばかばかばかっ!」
「俺が悪かった。ごめん、全面的に非を認めるから許してくれ」
未だ怒りが収まらない燐火に、白旗を上げる俺。
が、つり目はいつも以上につり上がっており、怒りが解ける気配はない。
その原因は――
「褒めてくれたの、ぜんぶ嘘だったんでしょ!? あたしを油断させるために心にも無いこと言って!」
ということらしい。
「だから違う。大人びてて可愛いってのは本心で、燐火の気を引くためのブラフなんかじゃないって」
俺の言葉を見極めようというのか、キッとした涙目を向けてくる燐火。それがぐすっ、ふぇっ、とぐずりだす。
「本当……? 嘘、じゃない……?」
「本当だって。信じられないって言うなら――勝者の権利を発動」
「な、なによ急に……。あたしがめかしこんだ理由を言えっていうの……?」
「そうじゃなくて」うう、こういうシリアスな空気のなか言うのは少し恥ずかしいな。「夜になったらサイドポニーとその格好をして俺の部屋に来てくれ」
「そ、それって……」
「俺の手で脱がせて、半脱ぎエッチしたい……」
「ば、ば、馬鹿じゃないの!?」
「でもこう言えば嘘じゃないって判るだろ? それに燐火が新しい魅力を俺に見せつけるのが悪い。和服の女の子と半脱ぎエッチするのって男の夢なんだよ、あんなに煽られて我慢できるか」
「今のそれ……、ほんとにほんと……?」
「本当に本当」
そのやり取りで機嫌が直ったのか、ツンと横を向いた燐火は、まだ怒ってるんだからね! という顔をしながらも柔らかい声音で俺を詰ってきた。
「史郎のえっち、スケべ、変態。ほんっとに、しょうがないんだから」
燐火に拗ねた感じの笑顔が戻っていく。
ふぅ良かった……、と一息つく俺だったが――
ふと視線を向ければ、今度は月夜がしょんぼりとし始めていた。狐耳を垂らし、悲しげな顔で俯いている。
燐火にだけ声を掛けたので、仲間外れにされたと思ったのかもしれない。
もちろんそんなつもりはなかった。
「月夜も来てくれるよな? もちろんその格好で」
「ふぇ……?」
意気消沈していた月夜の瞳に灯がともる。
「そんな可愛らしい格好を見せつけてきながらエッチなことさせてくれないのか?」
言葉の意味を理解したのか、月夜はぶんぶんぶんぶんと首を横に振り、俺の腰に抱きついてきた。
「お伺いします! 月夜も夜にお兄様の部屋へお伺いいたします!」
「うん、待ってるからな」
優しく頭と耳を撫でてやると、月夜は喉を鳴らしながらお返しとばかりに腰へと回した腕に力を込めてきた。
うんうん、愛い奴じゃ。
ようやく一件落着となった俺たちは、改めてまん丸に実った栗からイガを取り除き、竹籠いっぱいに詰めた。
それをよいしょと背負った俺は、ふたりに手を差し出す。
「んじゃ、帰るか」
「そうね。なんだか疲れちゃったわ」
「はい。帰りましょう」
俺達は、夕焼け小焼けの中、仲良く手つなぎをして家路につき――
あれ? なんか忘れているような……。
あ――
ここで俺は重要な忘れ物に気づいた。
「そういや月夜のお願いごと聞いてなかったな。何にする?」
“第一回栗拾い王決定戦イン栗林”の勝利者報酬。
燐火に勝ったら俺がお願いごとを聞くという約束だ。
しかし月夜は瞳をぱちくりと瞬かせたのち、軽く首を振って俺の腕に抱きついてきた。
「いいんです! お兄様にはもうお願い叶えてもらいましたから!」
「いいのか? 遠慮することないんだぞ?」
「遠慮はしてないです! お兄様、大すきです!」
「月夜ってば無欲ねぇ……。あたしが代わりになんかお願いごと聞いてもらおうかしら……?」
「こーら調子のんな」
晩秋の山路に笑い声が満ちる。
こうして俺たちは、仲良く家路についた。
◇
帰宅した俺たちを、葛葉さんは笑顔で出迎えてくれた。
「ただいま帰りました」
「おかえりなさい。栗、いっぱい取れたんですね」
竹籠にめいっぱい詰まった栗を見て、葛葉さんが嬉しそうに笑う。
「ええ。実は一合戦ありまして。その成果です」
「一合戦……?」
「少しばかり込み入ってるのでご飯のときにでもお話します」
「くす……。わかりました。楽しみにしておきますね……。ところで、燐火」
玄関先で話し込む俺たちの横を通り、そーっと中へと消えていかんとする燐火を、“お姉さん顔”の葛葉さんが呼び止めた。
「な、なに……?」
「なに、じゃないでしょう? 色打掛をそんなに汚して。……月夜も、打掛をそんなに泥んこにしちゃ駄目じゃない」
しゃがみこみ、月夜の着物についた汚れを払う葛葉さん。対する月夜はしょんぼりだ。
「ごめんなさい……」
「栗拾いが思いのほか楽しくて、やらかしちゃったわ……。その、ごめんなさい……」
謝るふたりを見て、葛葉さんはやれやれと表情で苦笑した。
「ご飯の前に、着替えてお風呂入ってきなさいな。着物はお洗濯しておいてあげるから」
やさしいその一言に、燐火がニマッと破顔する。
「はーい。……月夜、久しぶりにお風呂いっしょに入る?」
「はい! お供いたします!」
「ねね、どうせなら史郎と葛葉姉もいっしょに入らない? 夜に差し障りあるから、もちろんまぐわいは無しでね」
「もう燐火ったら……。そうやって調子に乗らないの」
「葛葉姉ってばお固いんだから……。……史郎はどう?」
「ん。俺か? そうだなあ……」
燐火の呼び声にふと顔を上げた瞬間――
俺は言葉を失った。
キラキラと輝いて見えたから。三姉妹が。夕日に照らされた幻燈亭が。
あまりに眩しく、あまりに美しく、あまりに温かで。
胸が、一杯になった。
(そう言えば……。長いあいだ忘れていたな……)
何気ない会話。
無償の愛情。
そういったものにくるまれる心地よさ。
それは俺がかつて持っていて、失ってしまったものだった。
すっかり無くしていた。仕事に打ち込むうちに。そして思い出した。三姉妹と暮らしたから。
「どうしたのよ史郎? 頭でも打ったの?」
返事もせずボーっと立ち尽くしていたからか、燐火が心配そうに顔を覗き込んできた。
「ん……。いやなに……、幸せだなって思ってさ……。皆との生活が。ずっとここに居たいって思ってしまうぐらいに……」
俺の一言に、燐火が眉をひそめる。
「なに言ってるの? ずっと居るんでしょ? もうあんたは皆の旦那さま、なのよ?」
「お、お兄様……。ずっと、ずっとここに居てください……」
不安げに駆け寄ってきた月夜が、浴衣の袖を強く引いた。
葛葉さんは俺の意向を最大限尊重するスタンスだからか何も言わなかったけど、その面持ちは緊迫していた。
「うん。俺も皆といっしょに居たい。だけど……」
一度も帰らずに居続けるっていうのはさすがに無理だ。ケジメはつけないと……。
(紹介営業に行き、引き継ぎもして、先生にも挨拶をして……。そういうやるべきことをやってちゃんと会社を辞めないと……。家の引き払いと家財の処分もしなきゃならないし、何より親父とおふくろの墓のこともある……)
皆いっしょにここでずっと暮らしていきたい。だけどそのためには社会的な責任を果たしてからじゃないとダメだ……。
俺にとってそれは大事なことだった。
そして――
「だけど……、なによ? そうやって黙られちゃ判んないじゃない」
怒る燐火に、今にも泣きそうな顔の月夜に、緊張した面持ちの葛葉さんに、俺は聞いておきたいことがあった。
「燐火は今、幸せか……?」
「何よ、藪から棒に……!」
「いいから。聞かせてくれ」
「……幸せよ。あたしは、ずっと引っかかってることがあった。でもそれをあんたが埋めてくれて……、毎日が楽しくて……。だけどそれはあんたが居てはじめて成り立つものだから……。あんたがいなきゃ幸せじゃない……!」
「月夜はどうだ……?」
「わたしも、燐火お姉様といっしょです……。毎日しあわせです……。でもそれはお兄様が居てくれるから……。……ずっと不安だったんです。人間の殿方ってどんなだろう、怖かったらどうしようって。でもお兄様は、絵巻物で見たどんな殿方よりやさしくてあたたかくて……。お兄さま以外の殿方なんて嫌です。ずっと、いっしょに居てください……!」
「葛葉さんは……?」
「私は……。私は、旦那さまと共に過ごして、少し母のことが判ったのような気がします……。なぜ父は去ったのに、母は安らかな顔で逝けたのか……、それは日々の中に幸せがあったから……。最終的には旦那さまが決めることだと判っていても……、ふたりの姉として、ひとりの女として、旦那さまが傍に居てくださることを願わずにはいられません……」
「……わかりました」
三姉妹とのくらしに俺が幸せを感じるように、燐火も月夜も葛葉さんも幸せを見出してくれている。
そして――
俺は自分の手のひらを見つめた。そこには三姉妹をも
・
っ
・
と
・
幸せにできるはずの、最後の1ピースがあるように思えた。
(僥倖、なんだろうな……。俺がこれを手にしているのは……)
どうせ現し世に、元いた世界に戻らないと行けないのなら、こ
・
れ
・
も
・
つかんで帰ってきたい。そしたら俺はもっと燐火を、月夜を、そして葛葉さんを幸せにできるはず……。
傲慢かもしれないけど、そう思う……。
だから――
俺は決断した。
「俺は一度……、現し世――元の世界に戻ろうと思います」
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