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18話 灰色の影

『紅の狼』による列車ジャック事件から数日後。

南方植民地タリンタンブリーの総督府から数百キロから離れた地点にて。

暗い灰色の雲は空全体に広がり、ねっとりとした空気が辺り一帯を覆っていた。

ぬかるんだ線路脇には、針型の草が青々と生い茂っており、葉の表面に溜まった雨水が湿気を一層増幅させている。

そんな鬱陶しいほどの湿り気の中、一人の白衣を着込んだ老婆が汗を滴らせながら熱心に何かを収集していた。

湿った布を無理矢理に口に押し込まされるような息苦しさが支配する中でも、老女の熱意は全く冷めることはない。

それどころか、試験管やペンがポケットから溢れそうになっているその白衣に泥が跳ね返って汚れても、一向に気にする様子すら見られない。

老女の眼孔には、優れた研究者に特有の子供のような好奇心と、ある種の狂気で満たされていた。

「おぉ、ようやっと見つかったわい」

膝をついた老研究者が泥の中からおずおずと取り出したのは……女の生首だ。

切断されたその首の表皮には、強力な魔導エネルギーを浴びた影響で、ところどころに焼けただれたような跡が出来ている。

しかし、体から切り離されてから数日は経っているはずのその生首からは、未だに生気を感じさせるような強い魔力波動が出ているようだった。

特に白目と黒目の反転したようなその特徴的な眼球には、強い憎しみの炎が燃え盛っているようにすら見える。

白衣の老女はポケットから小さなナイフを取り出すと、注意深く手元の頭部を切り裂き始めた。

すると、ヌルリと光る何か
・・
が、頭頂部に付けた傷跡から染み出してくる。

「鬼魂石
きこんせき
に傷は無しと」

老女が鬼魂石と呼ぶ魔石を取り出すと、女の生首はまるで砂が風で消し飛ぶようにサラサラと崩れていった。

老婆は生首が消え去ったことには全く頓着していないようで、ケタケタと不気味な笑いを浮かべながら、取り出した鬼魂石を掲げて、下から覗き込んだ。

雲の隙間から僅かに日光が差し込む。

その光を受けて、魔石は毒々しい輝きを放ち始めた。

鬼魂石はまるで生き物の心臓の鼓動のように、不気味な明滅を繰り返す。

石は以前の宿主であった『紅の狼』のリーダーの列車での戦いの生々しい記憶を、保持していた。

石の記録する戦闘データをいち早く確認したいと本国の連中から止められるのも聞かずに、はるばるこの南方までやってきた甲斐があるというものだ。

白衣に身を包む老いた女は自分の狙い通りだと、しめしめと笑った。

「フムフム、戦闘記録に欠損はない。問題なく取れているようだな。クククッ、中々に面白い」
「一体、何が面白いっていうのかしら?」

老婆の曲がった背中越しに聞こえてきたのは、穏やかな若い女の声。

しかし、先程まで笑っていた老婆はその声に心臓が止まるかと思うほどのゾッとした冷たさをそこに感じた。

急いで振り向くとその先には、スラリとした身なりの年若い顔立ちの女が穏やかな笑みを口に浮かべて、音もなく立っていた。

(いつからこの女、ここにいたんだ?!)

老女の心臓はその特徴的な
・・・・
彼女の容姿を見て、蛇を前にした小ネズミのように、みっともなくその身を震わせてしまう。

『帝国』所属の国家秘密警察に特有のグレーの制服に身を包むその女の髪は、美しく穏やかな紫色で、大きな瞳はまるで真っ赤に輝くルビーのようだった。

何より目を引くのは、Pカップはあろうかという爆弾のように大きな胸。

この美醜逆転世界基準で言えば、誰もが目を背けたくなるような正真正銘の醜女がそこにいた。

しかし眼の前のその女の立ち振る舞いや表情からは不美人
ぶおんな
特有の自信の無さや、卑屈さは毛ほども見られない。

むしろ、その堂々とした佇まいからは、ある種の自信と誇りのようなものすら滲んでいるように思えた。

灰色の制服に身を包む紫髪の女は、穏やかな笑顔を口元に浮かべて老女を見下ろしていた。

しかし口元から受ける印象とは反対に、彼女の紅の瞳には恐ろしいほどの怒りと侮蔑の感情が満ちていることが見て取れた。

「お、お前は、鷲峰
ワシミネ
瑠璃
ルリ
……なぜ、お前がここに?!」

老女が言葉を終える前に、ルリは鞭がしなるようにサッと手を伸ばして、老女の頭をむんずと乱暴に掴み上げた。

ー<幻覚の魔術>ー

まぶたを瞬く間もなく、凄まじい量の魔力を帯びた洗脳電流が、老女の魂を犯そうと脳髄に走り出す。

電流を受けた老婆は苦しみの悲鳴をあげ、白目をグルグルと向き出しにしながら、ブクブクと蟹のように白い泡を口からふき始めた。

(この婆のせいで、彼

は危うく死にかけた……っ!コイツを洗脳するのは辞めて、このまま脳髄を焼き切ってやろうかっ!)

苦しみの声をあげる老研究者を見つめるルリの紅眼には、見る者を焼き尽くすような無慈悲で激しい怒りが猛り狂っていた。

「大佐ー!車の準備の方、出来ましたよーっ!」

その時、四輪駆動車特有の低い唸り声のようなエンジン音と共に、場にそぐわないような呑気なかけ声がルリの耳に入った。

彼女はふぅとため息を着きながら老婆の頭から自分の手を外すと、長い紫髪を揺れ動かしながら、振り向く。

どうやら後ろに控えていたルリの部下たちがフィールドグリーン色の軍用車で近づいてきているようだ。

まるでルリがやり過ぎないようにと、見計らったようなころあいでの登場。

いや、実際ここまで狙ったようなタイミングでの登場となると、偶然の物ではないだろう。

おそらくルリの古株の部下が、気をまわしてのこと。

優秀過ぎる部下を持つというのも、それはそれで問題だな、とルリは苦笑してしまう。

「ご同行願おうかしら、ドクトル」
「……ハイ、オオセノママニ」

ルリが静かに指示を出すと、老女は感情を完全にこそぎ落とされたような表情を浮かべて、出来の悪いブリキのロボットのようにノロノロと彼女の後に従った。

「出してちょうだい」

老女と共に車両の後ろに乗り込んだルリがそう言うと、運転席に座るオカッパ頭をした丸メガネの女は手際よく車のエンジンをふかし始めた。

火の魔石と風の魔石の混合物によって発生した燃焼ガスを勢い良く吐き出しながら、軍用の4WD車は荒れた大地を勢い良く走り始める。

「大佐、今回は随分と乱暴に<幻覚の魔術>をかけられたんですね。この女、体中の神経がやられちまって、そう長くは持ちませんよ」

「良いのよ、コイツはそれで。後、いい加減、丸井
マルイ
。その『大佐』って言うのは辞めてよ。もう軍を辞めて2年になるんだし」

丸メガネのオカッパ女――丸井と会話しながらも、ルリはカバンに入れていた報告資料に素早く目を通していた。

悪路を走る車の揺れが伝わって、大きな胸元がブルブルと震え、手元の資料に被さって読みづらいことこのうえないが、彼女は特段、気にする様子もない。

昔は自分のこのオバケ胸が嫌で嫌で仕方なかったルリだが、彼

の容姿の好みを知ってからは、むしろ自分にこの肉体を与えてくれた両親の遺伝子の組み合わせとそれを采配した天上の神に感謝すらしていた。

「いやぁ、でも今更、『副長官』っていうのもなんだか慣れませんし」

「貴女くらいの付き合いの長い人間になら別に鷲峰とか、なんなら下の名前のルリって呼んで良いって思ってるんだけど」

「それはダメですよ、大佐。組織には秩序ってもんがありますから。『長幼の序』って言うんでしたっけ?」

「丸井は変な所で固いのね。それと、『長幼の序」って意味では、年上の貴女を部下として使ってる私は色々と問題ね」

運転席の丸井は「そいつは違いないですねぇ、大佐」と笑いながら、ハンドルを切って舗装路に上がった。

丸井は、帝国軍人時代からのルリの古参の部下だ。

自分よりもひと回り以上も年下のルリの天才性と度量の広さを、丸井はしっかりと見抜いていた。

だからこそルリが軍をわずか数年で退役して内務省へと電撃的に転籍した後も、丸井は忠実に従っているのだ。

アスファルトで整備された道路に入ってから、車の速度はグンっと上がった。

既にゴマ粒程の大きさではあるが、前方のフロントガラスから『帝国』の管理する南方軍管区の建物が見え始めている。

ルリは基地にたどり着くまでに調査資料の内容を読み切ろうと、ペラペラと紙の束をめくっては要点のメモを走り書きした。

(『人民連邦』の世界主義者に『連合王国』の貴族連中まで絡んでいたとはね。はぁ、全く。『連合王国』の二枚舌のペテン師共は、精々危ない火遊びをしているつもりなのかもだろうけど)

『人民連邦』はともかく『連合王国』まで絡んでくるとなるとこれは厄介だ。

『帝国』の上層部は様々な思惑があって今、『連合王国』との関係改善に動きつつある。

そんな時期に『連合王国』の間諜に対する対策を、と上に進言すれば煙たがられるのがオチだろう。

これからしなくてはいけない上との調整のことを考えるだけで、既に頭が痛くなる。

心の奥底から湧き上がる叫びたくなるような苛立ちを抑え込むために、ルリは自分のカバンにある虎柄の包み紙に包まれた棒ようかんを取り出してむしゃむしゃとそれを食べ始めた。

「あぁ〜。やっぱりイライラした時はこれに限るわね」

「3年前に紙煙草を辞められてからは、ずっとそれですね」

「えぇ、彼がタバコの臭いは受け付けないって言ってるのを聞いてね。それからずっと」

「随分とその、東堂
トウドウ
さん……でしたっけ?その方に随分とご執心なんですね、大佐は」

「まぁね。彼は、カイ君は、私の全てだから……」

ルリはウットリした表情で、彼
カイ
への思いをはせ始めた。

(東堂さんの話になると、大佐は途端にこれだからなぁ。彼もこれだけ思われて大変だ)

野良猫がイタズラするような声色で吐いた部下の言葉の含みにも、ルリは気づく様子すらない。

丸井はそんな自分の上司の年相応な振る舞いを見て気まずい笑みを浮かべつつ、話題の彼が本当にルリの言うような醜女にも優しい天使なのだろうかと、一抹の不安を抱くのだった。

「……そう言えば、カイ君の件で思い出したけど、中央の軍学校への手筈はその後、どんな具合かしら?」

「あぁ、それなら大佐のご指示通り進めておきましたよ。来週にも受け入れ可能だそうです」

「あら、随分と早かったのね。調整面倒だったでしょう?今の学長は頭が固いことで有名だから……」

「えぇ、まぁ。大佐が学生時代に色々と作られた『伝説』もあって、学長殿は中々首を縦に振ってくださらなかったんですが。奏
カナデ
親王殿下の方からお話があってからは、すんなりと進みましたよ」

「フフっ。それは貴女にも苦労かけたわね。本土に着いたら宮城
きゅうじょう
にも顔を出して、カナデにお礼もしておかないとね」

ルリは頬いっぱいに含んでいた羊羹の塊をゴクリと飲み込むと、車のサイドウィンドウに肘をつきながら遠くを見つめた。


カイ
ならもしかすると、あの見た目に色々と問題のあるカナデの事も、自分と一緒に娶
めと
ってくれるかもしれない。

本当なら彼のことを独占したいけど、問題児扱いされがちな自分を取り立ててくれた心優しいカナデにはいつか恩返ししたいと思っていた。

それに彼女となら1人の夫を共有する妻の関係になるというのも、そう悪くないように思えた。

カイは、ルリにとってはこの世でたった一人の救い主であり、彼へと向けるその思いはもはや崇拝の域に入っていた。

だからこそ……

(だからこそ、彼がこんな連中に襲われて、危険な目に合うことを防げなかった自分が……許せない!)

この世界で唯一無二の存在である彼が傷つき、あまつさえ命すら失われかねない状況に陥っていたということがルリは許せなかった。

彼女は自分の唇を血がにじみそうなほど噛み締め、敵と自分自身への湧き上がる苛立ちを誤魔化すのだった。

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