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24話 彼女との距離感

「――以上で本日の軍事地理学の講義を終える。来週の水曜日までに今日取り上げたテーマについて3,000字程度にまとめたレポートを提出すること。以上、解散」

授業の終わりを告げるチャイムの音が反響し、室内のピリッとした空気が一気に弛緩していく。

ふぅ、と一息ついて、急いでカバンに教本やノート、筆記用具をつめていく。

この後、すぐに専任教官――ルリ姉による個人指導があるのだ。

彼女の教授室のある東棟は割と遠いし、遅れないように早めに出ないとな。

ふと、視線を背中に感じる。

振り返ると、後ろの席の方でエリカが俺の方をじっと見つめてきているのが分かった。

(まだこっちに戻ってきてから1週間も経ってないって言うのに、なんて顔してんだよ。アイツは。)

エメラルドグリーンの潤んだ瞳に、悲しげに垂れ下がる眉。

そんな捨てられた子犬のような表情を浮かべる彼女を見ていると、「エリカみたいな美少女から俺はこんなにも思われているのか……」というゾクゾクした背徳的な感覚が湧き上がってくる。

そこに少しの罪悪感が入り混じることで、胸が締め付けられるような気分に陥ってしまう。

先週の休日に嬢ヶ崎家の本屋敷にお忍びで行った俺とエリカは、当主の京香さんから「課業などを除いて必要以上に接触しないこと」という条件で、2人揃って軍学校に戻ることを許されていた。

『嬢ヶ崎』と俺個人との関係を秘密警察に変に疑われない様にするために、元々は俺一人が軍学校に戻る予定だったのだが……。

「カイを軍学校に1人で帰させるのは、私は反対です」

そう言い張って、どうしても俺と一緒に軍学校に戻るのだとエリカが譲らなかったため、京香さんは渋々、条件付きでの帰還を許してくれたのだった。

エリカは「お母様は絶対にお前に懸想
けそう
して、私への嫉妬であんなことを言ってきたんだ!別れの時のお前を見つめるあの目を見れば分かる!」と帰りの飛竜便の中でプリプリと怒っていた。

まぁ、それはいつもの彼女特有の行き過ぎた被害妄想だろうけど。

ただ、俺自身、ようやく本心を伝えて名実
めいじつ
ともに恋人となったエリカと触れ合えないのは辛いし、何より、あんな切ない表情を見せられると、流石に可哀想に思える。

だが、エリカに付いているボディーガードの使役霊が定期的に、主人である京香さんに俺と彼女の様子を報告している今、うかつな行動をすれば秘密警察にしょっぴかれる前にエリカが実家に連れ戻されてしまうだろう。

それに、なんとかしてやりたいのは山々だが、すぐに解決する問題ではないし、何より今は、ルリ姉の個人指導の時間に遅れると色々と不味い。

そろそろ行かないと。

(すまん!エリカ!)

俺は目を伏せて、彼女に精一杯の謝罪の気持ちを込めたアイコンタクトを送ると、教科書を詰めたカバンを持って席を立ち上がりかけようとした、その瞬間――

「やあ、カイ。今日も可愛いね」

俺の前に、いきなり熊のように大柄な女が現れる。

女は通せんぼするように腕を俺の机に置いて、馴れ馴れしい口調で話しかけてきた。

(ハァ、こんな時に、また花谷
ハナヤ
か、面倒だな。)

思わず顔を顰
しか
めてしまいそうになるが、それを気取られないように押し殺して真顔で応対する。

「あぁ、花谷
はなや
さん。どうも」

取り巻きを連れて、俺にニヤけづらを見せるこの女は花谷 正子
マサコ

陸軍課程を専攻する俺と、海軍課程に所属する花谷とではクラスが違う関係もあって、あまり授業で顔を合わせるということもない。(有り難いかぎりだぜ、全く。)

だが、時折こうして課業の合間などに腰巾着を連れてやって来ては、俺相手にしつこくナンパな誘いをしてくるのだ。

「今晩、ワタシの行きつけのパブで食事なんてどうだ?」

「いやぁ俺、今日の夜は勉強に充てようかと思っていて……」

「カイ、いい加減素直になれよ。ワタシのこと、気になってるんだろ?そろそろ飯くらい付き合ってくれて良いだろう」

花谷がでっぷりと太った顔を揺らしながら、俺にウィンクすると、奴の取り巻きたちは「ヒュー、熱いね」「花谷と東堂、まさに美女美男って感じでピッタリだよなぁ」と囃
はや
し立てるように下品に騒ぎ出す。

侯爵家出身の花谷に睨まれるのは堪らないと、他の生徒たちは気まずそうに教室を出ていくのが目に入った。

うげぇ……勘弁してくれよ、もう。

自分自身、多少、面食いな所があることは認めざる得ない。(エリカに最初惹かれたのも、彼女が美少女だったのがキッカケだったわけだし。)

だが、人の顔の良し悪しで付き合い方を変えるような低俗な人間ではなりたくないし、そういう類
たぐい
の人間は俺に取っちゃ軽蔑の対象だ。

そもそも前世での記憶のある俺としては、自分のことをイケメンと思っていないわけだしな。

だがここまで、ねちっこく絡んでこられると流石に辟易
へきえき
としてしまう。

そもそも、俺は花谷みたいなオラオラ系なタイプが大の苦手なのだ。

こいつがもし俺の前世の世界の男として生まれていたなら、絶対にヤンキーになってオタクっぽかった学生時代の俺をイジメてきただろうな、と思ってしまう。

俺が花谷に誤魔化すような苦笑いを続けていると、いきなり後ろの方からガタッと大きな音がなった。

振り向くと、目をカッと見開いたエリカが、花谷達を鬼の形相で睨みつけているのが目に飛び込んでくる。

(ヤバい!アイツ、滅茶苦茶に怒ってやがる。)

俺のためにエリカが暴走して花谷とやり合うなんてことになったら、エリカに憑いている京香さんの召喚した守護霊は、たちどころに主人に報告を上げてしまうはずだ。

そうなったら、京香さんは娘のエリカを縛り上げてでも実家に連れ戻しちまうだろう。

花谷は後ろで怒りのオーラを放つエリカや困惑する俺に気づいていないのか、しつこく口説き続けてくる。

このままだと不味いな。もうこの際、雑に話を打ち切って逃げちまうことにするか。

「あー、花谷さん。俺そろそろ鷲峰教官の個人指導の時間が迫ってて。遅れると不味いからさ、じゃあね」

俺がそう言って立ち去ろうとすると、花谷は急に俺の腕をむんずと掴んだ。

何なんだよ、コイツは一体。

「勉強なら後でワタシが見てやるから、な。それに元とは言え准男爵の鷲峰なんて半分平民みたいなもんだろ?あんな貴族の真似事をしてる奴の指導なんか受けるより、ワタシと仲良くなった方が色々と得だぜ」

同じ侯爵家出身でも、花谷はエリカと違って家柄の良さを鼻にかけた所のある嫌な奴だった。

「それにさアイツの顔の醜さって言ったら……なぁ?あんなのと一緒なんて耐えられないだろ?」

花谷の取り巻き達が、甲高い笑い声を上げる。

……おいおい!流石に度を超えてるぞ、それは。

秘密警察に務めているルリには、多少思うところはある。

だが、それでも俺にとっては彼女は幼い頃からの憧れの大好きなお姉ちゃんなんだ。

それを好き勝手言いやがって、この豚ゴリラ女っ!

「鷲峰教官の事を悪く言わないでくれるか。花谷、アンタなんかより……」

ルリの事を馬鹿にするようなことを言われて頭に血が昇った俺が、抗議の声を上げ始めた直後……さっと風が吹き抜けるようにして影が横切った。

気がついた時には、花谷の手を振り払ったルリが俺の前に立っていた。

「は、はぁ……?」

一瞬、何が起こったのかわからず戸惑う花谷。

だがすぐに事態を把握したようで、 すぐにキッと鋭い目つきになってルリを睨みつける。

しかしルリはそんな視線などどこ吹く風といった様子だ。

「東堂君、もう個人指導の時間よ。グズグズしてないで早く準備して」
「……あっ!はい!」

急いでカバンを手に取って立ち上がると、ルリは俺を安心させるようにニッコリと微笑みかけてきた。

「今、東堂はワタシと大事な話をしていたところだったんですがね。教官
・・
?」

自分を無視するルリの飄々
ひょうひょう
とした態度に苛立ちを覚えたのか、花谷はルリに食って掛かるような言葉を投げかけた。

「そう?私には彼が迷惑そうにしているように見えたのだけれど」

ルリはそう言って余裕タップリに笑いながら、自然に俺の手を取ってエスコートする。

俺が抵抗なく彼女に付き従うのを見て、花谷は顔を真っ赤にして「ブサイクの木っ端貴族の癖に……」とモゴモゴ言うことしか出来ないでいた。

花谷の取り巻きたちも、花谷の機嫌を取り繕うようにアタフタすることしか出来ないようで小気味よかった。

一方、後ろの席で呆然と立ち尽くしているエリカはと言うと……ルリに手を引かれて歩いていく俺を見て悲しそうな顔を浮かべてくる。

……なんだかエリカがマジで不憫に思えてきたな。早い所、京香さんに頼んで、どこかでエリカとコッソリ会える機会を作ってもらおう。

「それじゃ、東堂くん。時間も押しているし行こうか」

俺がエリカに引け目を感じてボンヤリとしていると、ルリは元気よく俺の手を引いて教室の外へと俺を連れ出した。

廊下に出てしばらくすると、ルリがそっと顔を近づけてくる。

耳元に彼女の甘い吐息と体温を感じて、それだけで変な気持ちになってきてしまう。

「カイくん、さっきは私が悪く言われてるのに反論しようとしてくれたのありがとう。お姉ちゃん、嬉しかったよ〜♡」

畜生〜エロ可愛いなぁもう。なんだか頭もクラクラしてきた。

彼女のぷるぷるとした唇がすぐ眼の前に見える。このまま近づけばキス出来るくらいの距離だ……もういっそのことここで……。

イヤイヤ、俺は何考えてんだ。

真っ昼間の学校で!教師相手に!しかも俺には婚約者も居るんだぞ!

今しがた見たエリカの物憂げな表情が思い出されて、何とか理性を取り戻した俺は真っ赤に染まった顔を何とかルリから背けた。

「ざ〜んねん。でも、カイくん。やっぱり意外とムッツリさんなんだね〜♡」

ルリは小悪魔的にニコっと笑う。

それを見て俺はまた胸がドキッとしてしまう。

ふぅ、ルリは花谷とは別の意味で困った人だな。全く。

俺は冷や汗をかきながらも、鼻歌混じりに自分の個人指導室へ連れて行ってくれるルリに大人しく手を引かれることにしたのだった。

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