4話
僕の牧場生活がこうして始まった。
そんなこんなで時刻は緩やかに過ぎていき、日も沈んだわけで、牧場には夜の帳が降りた。
正式にバイトを引き受ける事になった僕はこの夏、自分がお世話になる宿の内装をゆっくり見て回った。
「変なバイトを引き受ける事になっちゃけど…まさかここに住んでいいなんてなぁ」
1階を見て回った後、畳の上で大の字になって寝っ転がる。
畳の匂いが心地いい。
僕の宿、それはこの事務所と呼ばれる大きな民家の事だった。
二階建てでかなり広い。
こんな本格的な日本家屋を独り占めできるなんて、ちょっとラッキーだった。
ちなみに『ひさっちゃん』こと牛牧さんはこの牧場には住んで居ないらしく夕方になったら普通にバイクで山を降りて行った。
つまり、この家には僕以外居ないという訳だ。
やったね。
ちょっとだけ良い事あったと喜ぶと僕はあの縁側へと向かった。
昼間にセシリアさんと座ったその縁側に再び腰を降ろす。
そこには、街灯のない澄み切った夜と、山の麓の街の夜景が映っていた。
森から響く程よい音量の虫たちの鳴き声はさながらオーケストラの合唱団のようだった。
「いいなーこの景色…」
コンクリートジャングルばかり目にしてきた僕にとっての羨望の景色が目の前にある。
それが嬉しい。
そんな風に縁側からの夜景にウットリしていると1人の来客が尋ねた。
「ふふっ…夜涼みですか?」
「あ、セシリアさん。こんばんは」
「ふふっ…こんばんは」
「どうしたんですか?」
「ナオくんお腹空いたでしょ?おさんどんに参りましたよ〜」
セシリアさんの手には食材らしき物が入ったエコバッグが握られていた。
夕飯を作ってくれるらしい。
「え、でも…いいんですか?」
「身の回りのお世話するって言ったでしょ?ふふっ…上がるね?」
セシリアさんは台所に立つとエプロンを身につけ、手際よく料理を始めた。
しばらくしていい匂いが事務所の中を漂い始める。
「彩音ちゃんはいいんですか?」
「あー、彩音ちゃんはリアナに任せて来たから大丈夫よ〜」
「リアナ…?」
「ほら、1番背が高くておっぱいも1番おっきかったヤンママみたいなお姉さん居たでしょ?あの人がリアナ」
「あー、そうだったんですね」
篠崎さんの横にいたあのヤンキーママ風のお姉さんはリアナさんと言うらしい。
セシリアさんはちょくちょく僕に話を振りながらも手は止める事なく、そつなく料理を済ませた。
「め、めっちゃ美味しいです…。ガツガツ」
「あらあら、それは良かった笑」
セシリアさんの手料理は…めっっっっっちゃ美味かった。
なんか母の味って感じがした。
母さん居た事ないからわかんないけど。
その後はセシリアさんにこの家のお風呂の使い方とか台所の使い方とか、生活用品の予備の置き場とかを教えてもらった。
見れば見るほど、説明されればされるほど、僕がこの夏過ごすこの建物は事務所という名に似合わない実家感を溢れさせていた。
「じゃあ、私はこれ2階に持っていかないとだから…ナオくんはお風呂入ってきちゃいなさい?」
「は、はい…なんかありがとうございます」
「ふふっ…良いからいいから遠慮しないで甘えて?」
セシリアさんはお盆に乗った夕飯を持って2階へ上がって行った。
この人から溢れ出る包容感と来たら。
それこそ一緒に居たらどこまでもダメな人間になりそうで少し危機感を感じつつも、それを断らせないのがまた、この人の魅力であった。
僕は早速着替えを用意しお風呂に浸かった。
「ふいー…」
程よい温度のお湯に浸かる。
窓の外からは虫の囁きが聞こえる。
父さんと住んでたアパートの一室のあの狭いお風呂とは違う圧倒的魅力。
骨の髄まで洗われていくようだった。
水滴の着いた天井を見上げながら今日1日あったことを思い出す。
考えてみれば色々あった訳で。
村の入口で変な人に会って。
道を聞いてはまた変な人に会って…。
牧場に到着しては早々変な人に会って………。
事務所という名の実家感溢れる家でまた変な人に会って………。
………。
変な人にしか会ってない。
僕は考えるのを辞めた。
「んー…」
にしても、このお風呂…めちゃくちゃ広いな。
僕が浸かっているそのお風呂はめちゃくちゃでかかった。
5人くらい同時に入っても大丈夫そうな広さだ。
なんでこんな広いんだろ。
まぁいっか。
お風呂から上がるとセシリアさんが布団を敷いていた。
「あ、ナオくんちょっと待ってね。すぐ敷いちゃうから」
「あっ!いやいや、さすがに自分で敷きますよ!!悪いですって」
「いいからいいから〜、ナオくんはのんびりしてて?」
「いやさすがにっ」
押し問答の末結局一緒に敷く事になった。
布団の両端を持って2人で位置を調整する。
「こんな感じの位置でいいんじゃないですか?」
「だーめ、風水的にはこっちが頭の方がいいんだから」
「え、じゃ、じゃあこんな感じですか?」
「ここだとちょっと寒そうじゃない?」
「じゃあこっち…」
「うーん、ナオくん、もうちょっと左」
たかが布団敷くだけなのにセシリアさんと共同作業になった途端てんやわんやし始める。
布団が敷き終わるとセシリアさんは掛け布団を構えて僕に向かって狙いを定め始めた。
「はーいナオくん、横になって〜」
「は、はい」
「ん〜、それっ」
「わっ」
セシリアさんが掛け布団を掛けてくれる。
なんか、保育園のお昼寝の時間に保育士さんがやってそうな光景だった。
「じゃあ私、ちょっと事務所のお掃除軽くして行っちゃうから、ナオくんは早く寝るんですよ〜」
さすがに自分も手伝うと言おうとしたがセシリアさんは軽い足取りで別の部屋へと行ってしまった。
天井を見上げる。
巨大な人造人型決戦兵器に乗った中学生の男の子が人類の敵と戦うあのアニメの名シーンのを呟こうか迷ったが辞めておいた。
「…。」
なんか、セシリアさんにはお世話してもらってばっかりだ。
この夏の間に僕はセシリアさんにちゃんとお世話になった分恩返しが出来るのだろうか。
「……。」
というかセシリアさんにとっての僕が出来る恩返しって…牛牧さんの言っていた事が本当なら、そういう事をするって事が恩返しになってしまうのだろうか。
考えていると変なスパイラルに飲み込まれてしまいそうなので気分を変えてスマホを弄った。
どうやらちゃんと電波は通じているらしい。
安心した。
何となく設定からWiFi検索してみるとすぐ近くに3Gと5Gの回線が見つかる。
この家の物らしい。
僕が来るまでは普段誰も居ないのにWiFiを完備して居るのだろうか。
セシリアさんと家の中を見て回ったがWiFiルーターらしき物は見当たらなかったので、そうなると2階という事になる。
そうしてしばらくスマホを弄っていると耳が異音を感知した。
バンッ。
「ん……?」
この音、多分セシリアさんじゃない。
セシリアさんの気配は1階の廊下奥辺りからずっと感じているからだ。
というか多分さっきからずっとホコリ取りをしてる……ぽい?
だけどさっき感じた音は、なんというか。
「に、2階…?」
2階からだ。
2階からだ何か思いっきり床を叩くような音がした気がする。
「えぇ…嘘でしょ…お化け…?」
そこで牛牧さんとのとある会話を思い出す。
それはあの恐怖の鬼ごっこ大会から大体1時間後、結局バイトをするにあたっての細かい話し合いをしていた最中、まさかの好きなアニメが一緒だったという意外過ぎる共通点から早くもクソジジイと打ち解けてしまった時の会話。
『そんでなっ!俺っち的にはそこの主人公との会話シーンがめっちゃ好きなんでよォ!』
『あっ!分かる!!分かりみ深すぎる!!!なんだよひさっちゃん分かってんじゃん』
『ナオっちもなかなか分かってるでねーかぁ!』
『『ガーッハッハッハ』』
『あー、そうだった、真面目な話に戻るんだけどよナオっち。この家で住むにあたって一つだけ必ず守ってほしい約束があるんでぇ〜』
『ん?…どしたん、ひさっちゃん…。』
『あんなぁ、この家の1階は好きに使ってくれていいんだけんどよぉ、2階にだけはぜってぇぇぇ行かんでくれ』
『え、なんで?2階になんかあるの?』
『オタ友のナオっちが相手でもこれだけは言えねぇ!だからよ頼むで!!』
『う、うーん…まぁ良いけど』
思い直してみると”ひさっちゃん”ことひさ爺が僕にとっての人生で初めて出来た1人目の友達になる訳だが。
というかそんな事はどうでもいい、それよりも2階には絶対行くな…か。
まさか、お化けでも居るんじゃ…。
「ゾクゾク……。」
僕は少し怖くなった。
ビビりな僕にとってそれだけは避けたい。
僕は布団から出ると壁に耳を当て2階からの音を探った。
「………」
すると果たして。
また音が聞こえた。
「誰か…喋ってる……?」
よく耳を済ます。
『んぁぁあっ…なんでそんなとこで芋ってんだよぉぉおっっ……次会ったら絶対死体撃ちしてやるっっっ…ドンドンっ!!』
「ぎゃっ…」
お化けだ。
違いない。
死体がなんとか言っていた。
悪霊の言葉と共に何かをドンドンと叩く音が聞こえた。
きっとこの世に恨みを持った霊が怒りから壁を叩いてるんだ。
ひさっちゃんめー、お化けが出るなら先に言っといてくれよぉお。
「で、でも2階に行くなって言ってたもんね」
なら裏を返せば2階にいかなければ大丈夫という事だ。
僕はそれを肝に銘じて布団の中へいそいそと潜った。
まだまだ眠気さんは遅刻しているらしく、覚醒した意識は残業を決め込んでいる。
なのでそれからさらにしばらくスマホを弄った。
「か、かわいいぃ…」
僕は最近、色んな動物の赤ちゃんのまとめ動画を見るのにハマっている。
「あーいけないんだ〜夜更かしさんが居る〜」
「あっセシリアさん、お掃除済んだんですか」
掃除に気が済んだらしいセシリアさんが襖を開けていた。
「うん…大体済んだかな〜。まだちょっと気になる所はあるけど。」
「なんか、すみません。お世話してもらってばっかりで」
「いいのいいの〜、ふふっ…そんな事より夜更かしさんは何を見てたのかな〜?」
「あー…いや。ちょっと動画見てて」
セシリアさんは部屋に入ってくると襖を閉め僕の横まで来て僕の手元のスマホを覗き込んできた。
「すごいね〜、今の若い子は。私なんてテレビだってまともに操作できないんだもん」
「ははは、良かったら僕が教えますよ」
「ほんと?助かる〜」
セシリアさんは僕の見ている動画が気になるようだった。
「あの…セシリアさん、もう帰っちゃいますか?」
「ふふっ…なに〜?まだ居て欲しいの?」
「あっ、いや…その。」
ちょっと寂しい気がした。
「あっ、いや。彩音ちゃん大丈夫かなって」
「あーそれがね〜。彩音ちゃんってば今この牧場では取り合いなの〜」
「取り合い?」
「みーんな彩音ちゃんのお世話したいみたいで、結局今日はリアナとのジャンケンで負けちゃったから彩音ちゃんとの添い寝はお預けなの」
確かにこの人達なら有り得そうだ。
「あの…」
「うん?」
「一緒に…見ます?…動画」
「え〜、お姉さんも一緒に見ていいの〜?」
「良かったら…ですけど…。」
「ふふっ…じゃあお言葉に甘えちゃおかな〜」
そう言うとセシリアさんは僕の布団の横に潜り込んできた。
「ふふっ…とうちゃーく」
「あっ…えっ…。」
「え…一緒に見るってこういう事じゃないの〜?」
「は…はは」
この人の独特な距離感と言葉のリズムはある意味誰も拒めないのかもしれない。
結局セシリアさんと2人で同じ布団に潜って夜更かしをする事になってしまった。
セシリアさんの肩と僕の肩が密着した状態での動画視聴。
僕はあまり動画に集中出来ていなかった。
横からめっちゃいい匂いする。
「わーかわいい」
「猿の赤ちゃんってもっとしわくちゃで変な感じなんだと思ってましたけど…結構可愛いんですね」
「私も赤ちゃん欲しいなぁ〜」
「セシリアさんって彼氏さんとか…居ないんですか?」
「居ないよ〜この牧場には彼氏持ちなんて1人もいませーん」
「はは…そうなんですね」
「そういうナオくんこそどうなの〜」
「ぼ、僕だって居ませんよ…学校では友達すら居ませんでしたし…。」
「そっか〜…じゃあ私たちフリー同士だね〜」
「ははは…そ、そうですね」
しばらくそんな会話をしているとスマホが真っ暗になった。
電池切れだ。
「あら〜」
「電池切れちゃいましたね」
「1時間くらい見てたもんね〜」
スマホがお亡くなりになりに。
僕たちは一緒に寝っ転がって動画を見ていた関係から、一緒の布団でただ添い寝をしている関係にバージョンアップしてしまった。
「…。」
「……。」
「まだ…寝れそうにない?」
「ま、まぁ…そうですね…そのうち眠くなるとは思うんですけど。」
時計の針を見ると時刻は10時程度。
まだ寝る時間では無かった。
「…」
「…」
セシリアさんと至近距離で視線が重なる。
顔が少しずつ赤くなっていくのを感じる。
人と人が見つめ合う時間というのはきっと地球の自転が遅くなり、時間もゆっくりと流れるしくみになっているのだろう。
そう思ってしまうほどに、秒針の刻むメトロノウムがゆっくりに感じた。
「ナオくんはさ」
「は、はい」
「ほんとにここでバイトするって事になって…良かったの?」
「そ、そうですね」
「…」
「なんか、流されてこうなっちゃった気はします…けど。」
「けど…?」
「それで僕が役に立つなら…いいかな…って」
「ははっ…そっか」
「はい…」
「ここで君くらいの男の子がお忍びで働くって事は…ここに居る女の子達と…そういう事をするって事でもあるけど…それはいいの?」
「ま、まぁそういう事に…なりますよね…」
「うん…。」
「でも…頑張って…みます…。」
「そっか…。」
「はい…」
「…」
お互い目を見つめあったまましばらくの沈黙が流れる。
すると…セシリアさんは唐突に口を開いた。
「それってさ…私にともイイって事……なのかな」
「え…」
そういうとセシリアさんは布団の中からゆっくり上体を持ち上げ僕の腰の上に跨ってきた。
こんな風にマウントを取られたら、きっと抵抗しても抜け出せないだろうなと、何故かそんな事を思っていた。
「こういう事に……なっちゃうけど?」
セシリアさんは僕の手に自分の手をゆっくりと、絡めるように重ねてきた。
腰には軽くセシリアさんの体重を感じる。
服越しに密着し合う太ももが柔らかい。
「せ、セシリアさん……」
「…」
「…。」
「ナオくんさ…」
「は…はい…。」
「私の事…全然警戒してないみたいだけど………。一応…私も発情期の牛娘なんだけどな…ナオくん」
あまりにもお母さん感があり過ぎて忘れていた。
この人は牛娘だ。
セシリアさんはそのままゆっくりと顔を僕の顔に近づけてくる。
セシリアさんの甘い吐息が僕の首筋を掠めるほどの距離まで近づいてきた。
あ…これ…キスされる…。
本能的にそう感じとった。
僕のファーストキス…ここか。
謎に変な覚悟をする。
唇と唇がスレスレの位置まで来る。
「…。」
「…。」
しかし、その瞬間は来なかった。
(あれ…。)
「…」
「ふふっ…なんてね」
急に今までと同じような調子に戻る。
セシリアさんはゆっくりと僕の上からどいた。
「じゃっ…私はそろそろ戻るね?ナオくん」
「えっ…あっ…はい」
「あんまり夜更かししすぎないでちゃんと寝るんだよ?」
そう最後に告げるとセシリアさんはそのまま事務所から出ていった。
部屋に残ったのは少し乱れた布団と電池の切れたスマホだけ。
僕と言うと、安心したような、残念だったような。
そんな不思議な気分だった。
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