第34話 言い訳と復讐
うずうずしているレイアをベッドの隅に置き、僕は背筋を伸ばして、仲間たちに事の経緯を説明した。
予想通りミオさんの正体がレイアだったこと。そして、《認識改変》で部屋に出入りできなくされ、思考を操られてエッチな戦いとなったこと……などなど。
「ふぅん、シンはそれで……このサキュバスとエッチなことしてたんだぁ……ふぅーん……」
「まぁまぁ、レナ……一旦話を聞きましょう?」
「……わかった」
ふくれっ面のレナに一瞬身体が震えてしまったが、宥めるファナさんのおかげでなんとか彼女の怒気とも言えるものがマシになり、僕は話を続ける。
「それで、魅了魔法を使われた瞬間にこれが光って、逆にレイアがこんな状態になっちゃって……」
「あっ! あの時の妖精さんの――本当にシンの助けになったんだね……良かった」
話しながら首から下げた未だに光るネックレスを持ち上げて見せると、レナがそれを眺めて呟く。直前の不満を忘れたようなその眼差しには心からの安堵が窺えた。
「うん。本当に良かった――」
そう返した時、首飾りに異変が見えた。うっすらと輝いていたそれが、最後に燃え尽きる炎のように光を増して――砕け散る。
「――えっ!?」
指先から突然消えた感触に呆気に取られつつもその行方を追うように見つめると、透明な宝石も魔石を編み込んだと言われた紐部分も全てが砂のように零れ、細かい粒子となって跡形もなく空気に消えていく。
「壊れ――はっ! レイア――」
魅了を跳ね返したと思われるそれが消えた事に焦り、慌てて僕は大人しく座り込むレイアに声を投げた。六人の仲間が揃っているとは言え、正気に戻られたらまずい。そう思って見つめた彼女の反応は、
「……あぁん、シン様ぁ♡ そんな強く呼ばれたら私もっとキュンキュンしちゃいますぅぅ♡ なんでしょうかぁ♡」
まるで変わらず、瞳に浮かんだ真っ白なハートマークもそのままに蕩けた返事をする。
「――良かった。魅了が解けたりしてないみたいだ……」
「私のこのシン様への気持ちは魅了なんてもので言い表せぬ程強いんでしゅぅ♡ シン様ぁ♡ しゅきぃぃ♡」
というか、多少はまともに戻ってくれてもいいかも。そんな贅沢な思いすら浮かぶ有様だ。
「そんな……ば、媒体が壊れても効果を維持し続けるなんて、どれほど強い効力があったの? 下手したら国宝級の力よ?」
「まじか!? そんなに価値があるんなら売っとけば良かったかもな……くそ、盗賊の私が……しくじっちまったな」
「ニーナ。馬鹿な事言わないの。そうしてたらシンが危なかったかもしれないんだよ?」
「わーってるよ。冗談だって……」
困惑を隠さずファナさんが呟いた言葉に、ニーナが軽口を漏らし、レナが叱る。そんな三人を眺めていたカグヤが話を進めようと声をあげる。
「そして、シン様はこのサキュバスが自分に従うか試すためにぱふぱふを命じた……と。ふふ、《忍法・筒封じ》で我慢を強いていたとはいえ……お盛んでございますね♡」
「誘惑に弱いのは知っていたけど、サキュバスにそんなことさせるなんて……というかその状況でもおっぱいをねだるって……あなた拗らせ過ぎでしょ……」
「まぁまぁアリスお嬢様。これも日頃の私達との特訓の成果と考えておきましょう」
あらあらうふふと笑うカグヤと、不満と喜びを混ぜ合わせたような複雑な表情を浮かべるアリス。少し呆れられている気もするが、行わせた……行わせてしまったぱふぱふを見られている以上、いかなる言い訳も出来ず、甘んじて受け入れるしかない。むしろ、その前の倒錯的なおっぱい鑑賞がバレなかったことを喜ぶべきか。
「ふふっ、ぱふぱふだけでなく、シン様は……私とあんなに――」
「レイア、黙って!」
「はひぃぃ♡」
うっとりとした表情で余計な事を口走ろうとするレイアを遮る僕へ、みんなの視線が刺さる。
「ふぅ……色々と問い詰めたい事もあるけれど、まずはシンさんが無事で良かったわ。それじゃあ――」
「その姿では久しぶりね……レイア。あなたには聞きたい事があるわ」
そしてため息をつきながらもファナさんがレイアへと問いかけた言葉はアリスに遮られた。そう、目の前のサキュバスは彼女にとってはようやく追い詰めた仇なのだ。
「ふふ、随分と勇ましくなったものね? それで……素直に言うと思う?」
「そう……シン?」
挑発的な笑みを浮かべて見つめ返すレイアだったが、アリスはそれに動じる事もなく、僕の名前を呼ぶ。その短いやり取りに秘められた意味をくみ取り、僕は口を開きサキュバスに告げる。
「うん……レイア。みんなに抵抗しないで、素直に言ってくれるよね?」
「ああぁん♡ シン様のご命令ならなんでもいいますぅぅ♡」
魅了状態の彼女はまるで迷うことなく僕に頷き、これまでの事を問われるがままに語りだす。父の仇。そして一時とはいえ母親だった人物――魔物の、ある意味変わり果てた姿を見るアリスの表情は何とも言えないものであった。
「なんで人間に暗躍するような形で接触してきたの?」
「──だ、だってぇ……サキュバスクイーンからの命令が伝えられたからぁ……♡」
言い訳する子供のようなレイアの説明はこう。
各地を巡り、気ままに──本能に従うまま人間の男を襲ったり、誘惑していた彼女にある日サキュバスクイーンからの命令が届く。
内容は過去に覚えのないもの……人間の有力者や力のある者を籠絡し、混乱を引き起こせという指令だった。
なんでそんな面倒な事をと思ったレイアだが、クイーンに逆らうという選択もなく、淡々と従い、各地の貴族や有力者に近づいたという。
そして、時折魔物と内通している人間達の悪事を手駒とした者に被せるなどした。アリスの父親もその被害者である。
「なんでサキュバスクイーンはそんな命令を? そもそも彼女はどこにいるのかしら?」
「クイーンの御心なんて知らないわよ。上級サキュバスの私だって命令に従うしかないもの。それに──」
彼女が語る事は僕らがあまり知らないサキュバスの生態に関する事だった。
彼女らは基本的に一箇所に留まらず、群れて行動しない。そのほうが怪しまれず、また男も独占しやすくなるからだという。
また、一つの土地に長く留まらないのは魅了や認識改変の限界もあるらしい。いくら高位のサキュバスとは言え、街全体を魅了したり大々的な認識改変など行えないとのことだ。
「そもそも、そんな力があればサキュバスがとっくに人間達を支配してるわよ。おわかりかしら?」
恥じる事なく傲慢に自身の限界を話すレイア。それにしても。
「……魅了されているからしょうがないんだろうけど、シンと他に対する喋り方が違いすぎて変な感じだね」
「だな……そんな取り繕われても、全然威厳は感じねーぞ?」
あまりの態度の違いにレナとニーナがボヤく。僕もそう思う。
ともかく彼女は本能的な行動もしたが、基本的には命令に従っただけで、その先にはさらなる原因が潜んでいるようだ。
けれどどんな理由があれ、彼女が人を誑かし危害を加えた事には違いない。
「そう。じゃあアリス──どうする?」
ファナさんが話を向けたのは、時折苦しげな顔で話に耳を傾けていた空色の髪のお嬢様。それは意見を聞くというより、この中で一番幼い女の子に決断を迫るように感じるもの。
「決まってるわ……復讐のために私はここまで来たんだもの。カグヤ」
「はい。アリスお嬢様」
堂々と返すアリスはカグヤに一声かけ、主人の意を汲んだ従者はその小さな手に自身の小刀を握らせた。
正直なところ、僕は少し迷っている。
美しすぎるとはいえ、人間とさして変わらぬ姿の魔物を殺める後ろめたさ。理性を失ったような状態だったとはいえ、体が触れ合った女を見殺しにする罪悪感。そして、命令に従順となった無抵抗な彼女を害していいのか。いくつもの感情や迷いが浮かぶ。
「やるわよ。レイア──言い残す事はあるかしら?」
「ないわ。……あぁ、でもシン様の童貞を頂かずにこの世を去るのは無念の極みですわぁ♡」
殺される。そんな気配を感じさせずに僕に潤んだ目を向けるサキュバスは、やはりどこか狂気的で人間とは違って見えた。
「なら遠慮なく……お父様の仇を──」
決意を固め、アリスが柄を強く握りしめた時だった。
「──すまないが、少々待ってもらえないだろうか?」
厳かな男性の声が部屋に響き、顔を見せたのはこの館、そしてこの町の長であるルフラス・レクイルその人。
初対面の時に突然激昂したとは思えない穏やかな表情を浮かべ、力の宿った強い瞳の光を見せている彼を見て、まず僕の頭に思い浮かんだのはこの人は今まともなのだろうかという疑問だ。
「レイア……魅了や認識改変って……」
「はい♡ シン様のご命令通り、先程全て解除いたしましたぁん♡」
さっきのぱふぱふの時か。あの理性を捨て去ったようなおねだりでレイアに囚われた人々を解放したのだと思うと、嬉しさと共に申し訳なさが若干浮かぶ。
「今度は私達が不躾な邪魔をする側になってしまったようだね」
「まー、しょうがないよねー? それがお仕事だしさー」
そしてその背後に立つのは見覚えのある痴女──騎士団をクビになったという不良冒険者のクリスとララだった。
「えっ! なんで二人がここに……!?」
「お前らがここにいるって事は碌な理由じゃなさそうだな……」
「やれやれ。酷い言い草のお嬢さん達だ。私達はこう見えて仕事を務めているだけさ。──領主の私兵としての役割をね」
昼の件が響いているのか鋭く警戒の目を向けるレナとニーナの言葉を軽やかにかわし、クリスが大仰な身振りで返す答え。
──領主の私兵って……どういうことだ?
「詳しくは私が話そう。この町の領主として……そして我を失っていたとは言え無礼を働いた一人の男として」
一歩部屋に踏み込んで声を上げるルフラスさんは憑き物が落ちたような凛々しい顔で、威厳を持って告げるその言葉に異を唱える者などは誰もいなかった。
「今回の件は全て私の責任と言っても過言ではないのだよ──」
子供にも恵まれず、妻を早くに亡くした彼はそれを紛らわすように日夜働き続けた。全てはこの町……ひいては国のために。
その仕事ぶりは町を豊かにして多くの笑顔を生んだが数ヶ月前のある日、そんな彼は一変した。
友人でもあるギルドのトップが館に事前の連絡もなく、相談があると訪れた日。領主として丁重に出迎えた彼の前に現れたのは、薄ら笑いを浮かべた男とこの世の存在とは思えない美しい女。
銀色の髪と透き通るような肌。そして、ドレスでは隠せない色気溢れる豊満な肢体。
彼は年頃の少年のように胸を高鳴らせ、気づけばその体に引き込まれそうになっている自分に気づき、慌てて目を逸らしたという。
しかし女が小さく囁き、瞳を桃色に光らせて見つめられると意識が酩酊したように蕩け、そのまま飲み込まれるように眠った。
そこから今日に至るまで、彼はレイアの魅力に取りつかれ、彼女の事だけを考えて行動するようになったらしい。
「──不甲斐ない話だが、私は言われるがまま有力商人や騎士団長に彼女を引き合わせ、町を毒沼に沈めるようにして汚してしまったのだよ」
どんどんと悪化して行く町の情勢や経済。ここを離れる者も何人もいた。その中で領主の行動に疑問を持ち、独自に調査を開始したのが。
「私達って訳さ。どうだい? 少しは見直したかな?」
「ねー♪ 大活躍──とまではいかないけど、ちょっとは役に立てたと思いまーす」
クリスとララは騎士団に潜ませていた領主の息のかかった冒険者だった。真っ当な行いだけで健全な領地経営などできるはずがない。そう考えていた彼は、自分の信頼できる者を騎士団だけでなく、ギルドや商人に潜ませて動向を常に注意していたのだという。
他の者はレイアに誑かされ手駒のように操られたが、魔の手が伸びる直前に二人は騎士団を去ったのだ。
それが偶然なのか故意のものなのか。こうしてクリスとララは被害を受ける事なく領主周辺の異変を監視、調査を進めていたらしい。
「あの領主さん? こんな時に言う事じゃないですけど、このちじょ──こほん。二人の行動を知ってて抱え込んでいたんですか?」
信じられないと目を見開くレナの問いに、領主は思い当たることがなにかあるのか、苦々しげに重く口を開く。
「もー、ひどいじゃん。そんなこと言わなくてもいいのにー」
「そうさ。彼にはああいう事はしたが、あれはあくまでまともなままでいられているのか、そして信頼できる男かを確認するために必要――緊急措置で致し方なかったのだよ。普段はもっと──丁寧さ」
もしかすると童貞を狙っているという話が嘘だと期待したが、彼女らはそれに対して一切の否定をしない。丁寧だろうが、結局行動は同じだろう。
昼間の目撃者であるレナとニーナとアリスがその反応を受け、ジト目でその上司を見つめた。
「……合意の上の自由恋愛だと報告が上がっている。問題があったのなら、その……すまなかった」
悪びれる事もなくいけしゃあしゃあと宣う二人に疲れたような顔をする領主を見ると、あぁ、この人は苦労してるんだろうなと同情の念が湧いてくる。
「ゴホン――は、話が逸れたが、ここまでがこの町で起こっていた全て。そして、そんな最中に君達が来てくれたという訳だ」
バツの悪さを見せつつも領主は本題へと切り替え、言葉を並べる。そして、その顔を僅かに曇らせながら、小刀を持った少女を見つめ、ゆっくりと続けた。
「……これは君に酷な頼みだということはわかっている。しかし、それでも言わせて欲しい。このサキュバスを今は見逃して欲しい」
「は?」
予想していなかった返答にアリスが困惑の声を漏らす。恐らく他の皆も同じ気持ちだろう。
「このサキュバスに操られたせいで損失を出した者もいれば、名誉を奪われた者もいる。そして、魔物と内通している人間がいるという話も聞かせてもらった――私は彼等を救い、反逆者には相応の罰を下したい。そのためには彼女の情報や強力が不可欠なんだ。――どうか頼む」
「……自分可愛さの保身――って訳でもなさそうね」
ルフラスさんの真摯な説明とそれに続いて深く下がる頭。ファナさんの皮肉混じりの言葉も途中で止まってしまう。
「で、でも……」
領主の言っている事は一理ある。ただ復讐のために殺すよりも罪滅ぼしの意味も含めて情報を吐かせて協力させる。正しい大人。まっとうな貴族の意見だろう。けれど、それを父親を奪われた少女に告げるのは……卑怯だとも思った。
困惑する彼女の手に握られた小刀が痙攣するように揺れ、刃先が窓から入り込んだ月明かりを時折反射させる。尊大でいつもふてぶてしさを持つアリスのか弱い姿は見ているだけでも悲しくなるし、特に絆の強いカグヤなどは心配そうな瞳を取り繕う事もせずに、オロオロと両手を上げ下げする。
「君の父上の名誉を回復させるためにも尽力しよう。そして、罪を擦り付けた者たちも必ず捕らえてみせる。だから、どうか、この通りだ」
父親という言葉が出てアリスの身体がビクリと反応した。
恨みを晴らための復讐。
無くなった名誉。
殺すためここにきたという感情
父を貶めた者たち。
天秤に乗せられた彼女の心が揺れているように僕には見えた。
だから、僕は思わず、
「――アリス」
口を開いていた。
「シン?」
「君がどちらを選ぼうと僕は君を助けるよ。だから正直になっていいんだ……ね?」
何も考えぬまま、ただ息を吐き出すように漏れた声。許せとも、復讐しようとも、気の利いた台詞や後押しする言葉一つも言えない。けれど本心なのだから仕方ないだろう。
「えぇ……そうね。シンさんの言う通りよ」
「うん、うん! アリスは大事な仲間だもんね!」
「シンの癖にかっこつけすぎだぜ? まぁ、異論はねーけどよ」
「あぁぅん♡ 仲間思いのシン様ぁ♡ 素敵ぃ♡」
仲間たちも励ますように、優しく包み込むように彼女に声をかける。友のように家族のように温かいそれを受け、アリスの瞬きが増えて少し潤んでいた。
あと、とりあえずレイアは自分の生死がかかってる場面で能天気に口を挟まないでもらいたい。君の処遇を今話し合っていると分かっているのだろうか?
「アリス様……」
「……カグヤ」
一歩踏み出したメイドが恭しく口を開く。
「私も同じです。旦那様に仕え、貴方様に仕え沢山の物を与えられたこの身。どのような選択をされてもこの身体はアリス様のためにございます」
僕らよりもずっと長く彼女を見てきたカグヤの声。まるで母が子を見守るような眼差し。自分だって恨みや憎しみはあるだろうに、ただアリスの事だけを優先する愛情。
見つめ合う二人のそんな姿は胸が震えるような光景だった。
「愛だね……うんうん」
「いーなー、いーなー」
痴女二人もちょっと水を差すようなことを言わないで欲しい。
というかこの場にいる痴女――レイアも含めて三人はちょっと空気を呼んで黙っててくれないだろうか?
「私は……!」
泣き出しそうな声をあげ、固く握り込んだ小刀が持ち上がり。
「こいつを──」
刃が下ろされる。強張った筋肉が解れ、思わず脱力したかのように下ろされたそれは、彼女の右太腿辺りでゆらゆらと漂うように揺れた。
「──今は──わ」
無言の空間に押しつぶされそうなほどに小さな呟き。しかしこの場でその言葉が聞こえなかった者はいない。消え入りそうな──見逃すわという台詞を。
顔を俯かせたままアリスは入り口付近の領主達をすり抜け、駆け足で部屋を出て行く。
「アリス!」
「お嬢様!」
一呼吸おいて、僕はいてもたってもいられなくなりそれを追い、カグヤも後ろに続いた。
そして廊下をしばらく駆け抜けたアリスは突き当たりの扉を開いた先のバルコニーに辿り着き、速度を緩めて手摺りに体を預ける。
煌びやかなショート丈のドレスが風に揺れ、そのまま流され消えてしまいそうな儚さを思わせる物憂げな表情。深窓の令嬢とはこういう子の事を言うのだろう。
「アリス──」
「私の家にもね。こんなバルコニーがあったわ」
僕の呼びかけを遮り呟いた言葉は、ここにいない誰かに投げかけるように空気に溶けて行く。
「よくお茶をしたわ。カグヤが焼いてくれたクッキーを食べながら、お母様やお父様と沢山お話をしたの。私の他愛もない言葉に笑ってくれていたのを覚えてる」
懐かしむように、そしてどこか寂しげに告げる過去のお話。それはその光景を見たことのない僕でも容易に想像できそうな真に迫るものだった。
瞳は弧を描きながら眩しそうに細められており、やがてそこから一筋の雫が溢れだす。
「幸せ……だったわ……ぐす、ぅぅ……」
雨粒のように小さなそれはすぐに堰を切ったように大きく流れ、彼女の頬を濡らし、ポタポタと床に垂れて行った。
悔しさと寂しさに耐えるような年下の女の子の姿に僕とカグヤは同時に進み出し、左右から抱くように包む。
「あ、うぅ……ぅあぁぁぁぁん……」
止めどなく涙を生み出す少女。決して代わりになれないとは分かっていても、僕らは彼女の父と母の隙間を埋めようとその体をキツく寄せた。
せめて少しでも彼女の悲しみが和らいで欲しい。泣きじゃくるアリスに声をかけることもなく、僕らは一塊になってその場に立ち続ける。
そしてどれほど涙が流れただろう。
僕とカグヤの服、自分のドレスすらも濡らし続けた彼女が息を整え、囁く。
「シン……ありがとう」
「えっと、なにが?」
むしろ仇のサキュバスとあんな事をしていた自分を責められる心当たりはあれど、お礼を言われる覚えはない。
「貴方が私とカグヤを許してくれた。復讐のためになりふり構わなかった私達を……助けてくれたじゃない」
少し恥ずかしげな声音。今この子はどんな表情を浮かべているんだろう。気になるが僕とカグヤに挟まれ、密着しているその顔は窺えず、ただ胸にくすぐったいような熱を覚えるばかり。
「レイアを見逃すことに今でも抵抗はあるし、悔しくもある。けど、シンがあの時ああ言ってくれなかったら、私は間違いなく誰が邪魔しようと仇を討とうとしていたわ。だから……ありがとう」
僕のあの行動がこの子の進むべき道を変えた。そう思うと、なぜか肩が重くなったような気もするが、誰かの信頼や責任を背負っているみたいに思えて、それはそれで妙に心地いい重荷に感じられる。
「……そうでございますね。皆様に酷い行いをした我々に貴方様は手を差し伸べた。普通のお方なら、あんな選択は選びません。本当にありがとうございます」
カグヤもカグヤで主人に追従するように僕へと礼を述べた。
そして、表情を変えてついでとばかりに言葉を告げる。
「しかし私達とサキュバス──敵のはずの者に良いようにされながらも結果として逆に懐柔する。シン様はまったく罪作りなお方でございますね。ふふっ」
「か、からかわないでよ」
抱きつくよりも遠い距離。ただ共にアリスと触れ合うことで日頃以上に近くに感じるカグヤは、悪戯気な笑みでウインクをひとつ。
「あはは……そう言えばそうね。私の仇のサキュバスとあんなことするなんて。スケベ。変態。馬鹿。爆乳中毒。色魔。変態」
褒めたと思えば罵倒してくる、そんないつも通りのアリスの言葉に少し安心した。
あとなんで変態って二回言ったの? 覚えがありすぎて否定できないけど。
「――そうだちょっと屈みなさいよ」
「え、え? うん、わかったよ」
すっかり落ち着きを取り戻した彼女の言われるがまま足を曲げ、二人を見上げるようにしゃがむ。未だ密着している乳房達が互いに潰れあい、ひしゃげる様にドギマギしつつも、跪かせた少女の顔を見る。
涙の跡を残してもなお可愛らしい顔立ちは、月明かりに照らされてどこか幻想的だ。
「それでいいわよ。……それじゃあ、あんなサキュバスに誑かされそうになった罰よ。目を瞑って歯を食いしばりなさい」
「ひっ! ……は、はい!」
やはり怒っていたのだろうアリスは右手をあげ、殴る体勢を整えながら僕に告げる。
反論や抵抗など考える事もなく返事をして、僕はそれに従う。
そりゃそうだ……あんな欲望丸出しの姿を見せたのだから、仕方ない。その程度の罰なら喜んで受け入れよう。
――けど、ちょっと補助魔法で防御を強化しようかな? でも、それは誠実じゃないよな……というか今更誠実を演じたところで最早取り繕う意味なんかないだろう。
「行くわよ──」
来ると分かっていても──いや、分かっているからこそ訪れるであろう痛みに怯える。そのせいでより強く瞼がくっつく。
微かな空気の動き。来る。そう思った瞬間──ちゅっ♡
「……へ?」
頬に感じたのは衝撃ではなく、柔らかく甘い感触。呆気に取られ、口から変な音が漏れたと同時に反射的に視界が開いた。
「ん、ちゅ……♡」
真横に広がっていたのは睫毛の一本一本まで数えられそうな距離で近づき、目を閉じながら僕の頬に唇を押し付けるアリス。
キスされてる? なんで?
訳も分からないままの僕を置き去りにして、彼女は何度も唇で突くように押し当ててきた。
「……ん、ふぅ……な、なに、そんな驚いた顔してんのよ!」
やがてゆっくり離れたアリスは僕の表情がお気に召さなかったのか、不満げに唇を尖らせる。
「い、いや、びっくりして……その、ありがとう……?」
状況の把握も出来ずに口から自然にポロリと出たのは、疑問が浮かぶような感謝の言葉。それを受けてカグヤはくっくっと笑い声を溢す。
「耐性のないシン様もおかしいですが、お嬢様ももう少々素直に──ロマンティックにすればよいのに。くす……」
独り言のようなそれは僕とアリスの耳に届き、互いの顔を真っ赤に染める。そんな子供のような二人を見つめるカグヤの笑みはからかうようでもあり、慈愛に満ちた母親のようでもあった。
「うるさいわよ……ばか」
しばらくの間夜風に吹かれた僕達三人は、落ち着いたアリスの涙の跡が消えた頃に部屋に戻る。
しきりにみんなに泣きじゃくった事を秘密にするよう求めてきたお嬢様は、見た目以上に子供みたいで少しおかしかった。